見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県中津川市(3)

遠山七家の一つに数えられることもある馬籠城(馬籠4920)

 ネット上で立派な馬籠城の案内板を見たので、さぞかし立派な遺構が残っているのだろうと、
期待して見学に行ったのですが、「えっ、これだけ?」と拍子抜けしました。廓らしきところには、
石でできた神社があるのみ。特に遺構らしきものは、見当たりませんでした。そのうえ、歩き
回ったところは、どなたかの私有地かもしれないと思え、ハラハラしました。
 あの立派な案内板は、風雨に晒されて痛んではいましたが、内容は勉強になるものでした。
まず、島崎藤村の祖が馬籠城を警備していたこともあるということ。次に武田信玄の娘婿であっ
た木曽義昌の動静が記述されていたことです。因みに島崎藤村の祖先は、滅亡した三浦義村
の一族がこの地に落ち延び、『島崎』を名乗ったとどこかで読んだことがあります。

因みに、馬籠城は『遠山七家』の一つに数えられることもあるようです。
                            (23/ 4/27 訪問)

(現地案内板より)

室町時代 この頃より馬籠城があり、岩村遠山氏の支城であった。
戦国時代 天文24年 木曽氏が武田氏に降り、馬籠遠山氏も武田氏の傘下に加わった。
武田信玄死去
天正09年 武田勝頼が遠山18支城を落とし、その中に『まごめ』の名があった。
木曽義昌が武田勝頼を裏切って、武田軍から離れた。
武田氏滅亡
馬籠城は、織田氏の傘下に入るが、信長死去。
馬籠城を、羽柴秀吉傘下の木曽義昌が治めるようになる。
天正12年3月 小牧・長久手の戦いが勃発。
木曽義昌は最初徳川側に付いたが、羽柴秀吉に寝返った。
秀吉は、木曽義昌に徳川軍の攻撃に対する防衛を命じた。
義昌は、山村良勝に妻籠城を、島崎重通に馬籠城を警備させた。
天正12年9月 徳川家康は、飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠に木曽攻略を命じた。
三軍は、妻籠城に攻め込み、その一部は馬籠城を攻めた。
馬籠城を守っていた島崎重通は、恐れをなして妻籠城に逃げ、そこで山村良勝と共に 徳川軍を撃退した。
豊臣秀吉死去
慶長05年 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、木曽を直轄領とした。
江戸時代 元和 元年 木曽は、尾張徳川義直の所領となり、馬籠城は廃城となった。
徳川家康死去

中山道沿いにある『馬籠城』の案内板

中山道から一段上がったところ

さらに進むと神社らしきものが・・・。
今まで見たことがない露天の神社

廓の先端まで行くと、眼下に田んぼが広がっていました。

かつて馬籠は長野県山口村でした。



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