見て歩く日本の城と史跡ー岐阜県大垣市(2)

戦災で国宝の天守閣が焼失した大垣城(郭町2丁目52)

大垣城というと、関ヶ原の合戦の折、
石田三成が本居地としたことが有名ですが、
実際に訪問してみて、かつて素晴らしい天守閣があったこと、
そしてその天守閣が戦災で焼失したことを初めて知りました。
再建されたお城を巡っているうち、焼失してしまった無念さと
再建にかけた情熱がひしひしと伝わってきました。

改めて、文化財を後世に残す大切さを
感じながらの大垣城でした。    (19/ 9/15 訪問)


おあむの松
関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと
西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。
落城不安がつのるある日東軍から矢文が
届き「玄暦は家康様手習師匠であったので
逃がす」と伝えた。「おあむ」は父母と西堀
端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に
上陸無事逃れた。そののちその松を誰言う
となく「おあむの松」と愛称した。
昭和の大戦直前枯れたが植え○青年の樹
として「二代おあむの松」と命名した。


案内板1


本丸の西側にある門から入りました。



案内板2




案内板3





案内板4





ここで再建された天守閣に入りました


再建された天守閣内の展示物(1)



再建された天守閣内の展示物(2)















天守から見た伊吹山 天守石垣

天守閣から出て、周囲を回りました。





滝と言っても、水はありませんでした。

看板の位置がぴったり来ませんが、これが東門(大小姓多門)かと・・・。



明治29年(1896)7月・9月の風水害
 明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域におけ
る最大の大水害であった。
 この年の7月19日より22にかけて大垣では降水量
378ミリとなり各河川に増水して、21日に揖斐川にて
合福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水
害となった。9月の大垣の浸水は7月より約1メートル
高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する
軒上浸水となった。
 この大垣城石垣に刻まれたのがその水位であり、この
惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を投
じて建てたのが、この洪水碑である。

「ここまで、水が来たんですよ。」とボランティア・ガイドさんが示して下さいました。
許可を得ていないので、お顔を隠してアップロードします。


中央:天守閣  右:戌亥櫓

奥の右側が大小姓多門
ここから天守閣を離れて、大垣城の各門を探しました。




案内板5




廣嶺神社の中には、柵があって入れませんでした。

美味しい飲める水だそうです。


郷土博物館の庭にありました。







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