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大垣城というと、関ヶ原の合戦の折、
石田三成が本居地としたことが有名ですが、
実際に訪問してみて、かつて素晴らしい天守閣があったこと、
そしてその天守閣が戦災で焼失したことを初めて知りました。
再建されたお城を巡っているうち、焼失してしまった無念さと
再建にかけた情熱がひしひしと伝わってきました。
改めて、文化財を後世に残す大切さを
感じながらの大垣城でした。 (19/ 9/15 訪問) |
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おあむの松 |
関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦らと |
西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。 |
落城不安がつのるある日東軍から矢文が |
届き「玄暦は家康様手習師匠であったので |
逃がす」と伝えた。「おあむ」は父母と西堀 |
端の松から堀のたらい舟に乗り移り西岸に |
上陸無事逃れた。そののちその松を誰言う |
となく「おあむの松」と愛称した。 |
昭和の大戦直前枯れたが植え○青年の樹 |
として「二代おあむの松」と命名した。 |
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ここで再建された天守閣に入りました。
天守閣から出て、周囲を回りました。
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滝と言っても、水はありませんでした。 |
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看板の位置がぴったり来ませんが、これが東門(大小姓多門)かと・・・。
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明治29年(1896)7月・9月の風水害 |
明治29年の水害は大垣を中心とした輪中地域におけ |
る最大の大水害であった。 |
この年の7月19日より22にかけて大垣では降水量 |
378ミリとなり各河川に増水して、21日に揖斐川にて |
合福が破堤し続いて水門川など46箇所で破堤して大水 |
害となった。9月の大垣の浸水は7月より約1メートル |
高く大垣町の約80パーセントの家々が屋根まで達する |
軒上浸水となった。 |
この大垣城石垣に刻まれたのがその水位であり、この |
惨状を後世に伝えるため大垣の金森吉次郎が私財を投 |
じて建てたのが、この洪水碑である。 |
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「ここまで、水が来たんですよ。」とボランティア・ガイドさんが示して下さいました。
許可を得ていないので、お顔を隠してアップロードします。 |
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中央:天守閣 右:戌亥櫓
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奥の右側が大小姓多門 |
ここから天守閣を離れて、大垣城の各門を探しました。
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廣嶺神社の中には、柵があって入れませんでした。
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美味しい飲める水だそうです。
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