金森氏6代・107年間の居城であった飛騨高山城(城山) |
高山陣屋の見学を終えた後、気軽に高山城を見に行こうと思ったのですが、
高山城はスケールが大きく、本丸まで登るのは結構たいへんでした。
三ノ丸、二ノ丸は車で行けるのですが、本丸は二ノ丸からかなり急な坂を登らなければなりません。
本丸まで到達して、周囲を見回したり、案内板を見たりして、高山城はいわゆる詰城ではなくて、
城主が寝起きしていたのではないかと思いました。 (17/06/22 訪問) |
高山城の由来 |
栄正年間(1504〜1521)高山外記がこの山の頂上に築城し、天神山城と称した。
これが高山という地名及び城の期限と言われている。
永禄元年(1558)三木自縄に攻められて落城。天正13年(1585)金森長近が
豊臣秀吉の命により飛騨1国に攻め入り、三木氏を滅ぼして領主となった。天正18年
築城に着手し16年の歳月をかけて完成させた。
全国でも平山城として屈指の名城といわれ元禄5年(1692)出羽国上山に移封
天領となるまで、金森氏6代 107年間の居城であった。元禄8年幕命により加賀藩の
手で徹底的に破却され昔日の姿を失った。
臥牛出城、巴出城、巴城などの雅名がある。 |
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三の丸 |
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上段にある護国神社
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護国神社の下の広場(曲輪)
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堀から見る護国神社
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金森氏時代の堀が残っているのでしょうか。 |
二の丸 |
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真ん中に金森長近公の碑がある二の丸
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金森長近公の碑 |
本丸とその周辺 |
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二ノ丸からかなり登ったところにある中段屋形
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東北曲輪『搦手之門』 |
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東北曲輪に上段が・・・
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画像右の案内板をこの下に |
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『玄関』の碑
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石段を上がったところ・本丸屋形
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本丸から南方向に降りた『もみの木平』 『南之出丸』か? |
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金森氏時代の建物が今に残る高山陣屋(八軒町) |
徳川氏の直轄地を管理していた高山陣屋に、戦国時代の金森氏の建物が残っているというのが、私の大きな関心事でした。
高山城から移築したという『御蔵』は、大きくどっしりしていて、これで400年前の建物かと驚きをもって見ました。
また、城主高山重頼の3人の娘が居住していた時代と比較して、現在の高山陣屋は3分の1に縮小されたそうだが、
戦国時代の領主が持っていた力に圧倒される思いでした。因みに城主高山重頼は、別の屋敷に住んでいたとのことです。
(17/06/22 訪問)
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史跡 高山陣屋跡
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元禄5年(1692)7月 6代高山城主金森頼時は、出羽国上の山に移封となり、飛騨国は江戸幕府の直轄領となった。
幕府は8月18日関東郡代伊奈半十郎忠篤に飛騨代官を兼任させ、22日に加賀国 前加賀守綱紀に高山城在番を命じた。
伊奈代官は金森氏家臣4家の屋敷を会所として金森氏移封五の事務処理に当たった。元禄8年(1695)4月高山城の取り
壊しが始まり3代高山城主高山重頼の3人の娘が居住していた向屋敷に代官所を移して『高山陣屋』と称した。以降明治
維新にいたるまで、飛騨国内の政務は高山陣屋で執行された。
元禄8年当時の高山陣屋は。約2万8千平方メートルの広大な敷地を有していた。高山城3の丸にあった米蔵2棟を陣屋
内に移築した以外、建物の配置・規模は不明である。享保10年(1725)老朽化がr激しくなった高山陣屋の建物は、御蔵以
外全て解体され、旧材を利用して御役所と御役宅に区分して立て替えられ、陣屋としての形態が整えられた。しかし、敷地は
3分に1に縮小されている。その後、文化13年(1816)御役所、文政13年(1830)郡代役宅、天保3年(1832)表門と
陣屋の建物は、漸次改築された。 岐阜県教育委員会 |
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武田軍の伝説が残る平湯大滝(奥飛騨温泉郷平湯) |
飛騨高山の地に、武田軍の伝説が残っているのには、驚きました。
(14/10/28 訪問) |
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武田信玄も通った安房峠(現岐阜県高山市と長野県松本市の県境) |
武田軍の飛騨遠征は都合5回に亘たり、その内1回は、信玄自らも遠征に加わったとのこと。
その行程は、今の松本から野麦街道(158号線)で安房峠を越えたのでしょう。
現在は、安房峠トンネルができましたが、かつては飛騨はたいへんな秘境だったと思われます。
(06/08/01 訪問)
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