見て歩く日本の城と史跡ー三重県桑名市

徳川四天王の一人本多忠勝が初代藩主だった桑名城(吉之丸)

幕末に官軍(井伊軍)に攻められて落城し、落城後破却されたためか、
江戸時代の城の絵図とかなり様子が違っているように見えました。
また、城内の案内図がイマイチ詳しくなかったせいか、方向感覚をなくしてしまいました。
それでも、楽しみにしていた初代藩主本多忠勝の像は、見応えがありました。
忠勝の孫忠刻と結婚した徳川家康の孫千姫も、ここで暮らしたことがあるかと思いながら
しばし、本丸の」水辺を眺めました。 
揖斐川の河川工事の歴史も興味深いものがありました。      (18/04/22 訪問)

揖斐川の治水史をご覧ください。

(現地案内板より  以下も同じです。)


柿安ビル近くの駐車場から三之丸を経て蟠龍櫓へ


水門総合管理所
  水門統合管理所の概要
 管理所は、かつて桑名城の隅櫓の一つである蟠龍櫓が建っていたところに位置するため、建物の設計あたってこの櫓の復元
をめざすこととなりました。伊勢湾台風で当初の石垣が失われているなど、復元のための歴史資料は限られましたが、絵図など
に描かれた櫓の姿や、同時代の類例を参考に往時の姿になるべく近づけるよう推定復元しました。4間X6間と比較的規模の大
きい二層櫓で、元禄14年(1701)に天守が消失して以降桑名城と川口のまち桑名を象徴する櫓であったと伝えられています。
  蟠龍櫓について
 桑名城には、元禄大火後に再建された時点で、51の櫓があったと記録されています。この中でも、川口にある七里渡しに面し
て建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。歌川広重の有名な浮世絵「東海道
53次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。
 蟠龍櫓がいつ建てられたかは定かではありませんが、現在知られているうちで最も古いとされる正保年間(1644〜48)作成
の絵図にも既にその姿が描かれています。蟠龍の名が文献に初めて表われるのは、享保2年(1802)刊の「久波奈名所図鑑」
で七里渡付近の様子を描いた場面です。この絵では、単層入母屋造の櫓の上に、「蟠龍瓦」と書かれており、櫓の形はともかく、
この瓦の存在が人々に広く知られていたことを思わせます。
 「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟の装飾モチーフとして
広く用いられています。蟠龍櫓についても航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
 文化3年(1806)刊の「絵本名物時雨蛤」という書物に「臥龍の瓦は当御城門乾櫓の上にあり、この瓦名作にして龍影水にうつ
る。ゆへに、海魚往ずといへり。」とあって、桑名の名物の一つにこの瓦を挙げています。



 
   
 
 
   
 
 



 
 
 
 
 
 



初代藩主本多忠勝の墓


旧東海道




青銅の鳥居    しるべいし


   
 
 
   
 
 
『 三之丸堀』と書いてあります。

   『三条大橋』と書いてあります。
 
     振り返るとこんな石組が見えました。

 
二之丸橋を渡って桑名城の本丸に入ります。

 
   
 
 
   
 
 


 
   
 

 
   
 
 
かつての『大手門』へ続くと思われます。     『きゅうかはし』と書いてあります。

 
『三重県指定史跡桑名城』の碑

   『鎮国稲荷神社』
名槍『蜻蛉切』の先端まで、丁寧に作られていました。
『蜻蛉切』は刃の部分のみを徳川家康から拝領したもので、柄の長さは体力によって変えていたそうです。
一番長いときで、6mだったとか。



日本の城と史跡・目次][年表