見て歩く日本の城と史跡ー三重県桑名市(2)

一向一揆の舞台となった長島城の江戸時代の名残(指江548)

長島城というと一向一揆で破壊しつくされた状況を考えますが、
江戸時代には、長島藩として城も再建されたのは、思えば当然のことです。
しかし、残念なことに江戸時代の城も移築された大手門とクロマツと堀くらいしか残っていません。
地形も一向一揆の当時とは、大きく異なっています
それでも、一向一揆の当時を思いながらの散策は、なかなか楽しめました。
                                         (18/11/25 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)



堀には城の名残を残すいくつかの橋がありました。

 
これも江戸時代の堀だろうと思われます。


 
町中にも掘りにも丸い石の石垣があったので、城時代に造られたものか?と思いました。

 
長島城の山門を残す蓮生寺

 
 
大手門の表側

  大手門の裏側

 
江戸時代の材木だと思われます。

  増山氏の家紋

 

長島一向一揆の拠点となった願證寺(杉江)の名を継ぐ願證寺(叉木)(叉木66) 

長島一向一揆の拠点となった願證寺は、長良川の底に沈んでしまっていますが、
現在は又木に願證寺の名を継ぐお寺が建立されています。
境内には、『長島一向一揆殉教之碑』があるというので、出かけてみました。
最近修復されたらしい本堂は、とても立派で美しかったです。
特に案内板がなかったので残念に思っていると、ご住職が声をかけてくださって、
色々説明して下さり、残り僅かになったパンフレットの写真を撮らせてくださいました。
そのパンフレットを読むと、長島一向一揆のことがよく分かるので、許可を得てここにアップロードします。
                                            (18/11/25 訪問)

願證寺のご住職から見せていただいたパンフレットより

 長島一向一揆・動乱の時代
 1497年(明応6年)、本願寺第八世・蓮如の子、蓮淳は、北伊勢・美濃・尾張西部への強勢拡大のため、長島の願證寺に
派遣されて寺主となった。ところが周辺の土豪や信長に破れた落ち武者などの反信長勢力が、長島の一向宗信徒に加担して
願證寺と手を結び、信長にとって無視できぬ脅威となってくる。
焦った信長は、本願寺の前線基地となった長島を完全に破壊させる決意をし、1571年〜1574年に亘って総攻撃を加えた
のである。信徒側は長島城に立てこもり、『信者往生極楽』『退者無限地獄』を旗印に掲げ、最後まで果敢に戦いぬいたが、つ
いに、1574年(天正2年)9月、長島城陥落を迎えた。当時の願證寺は、現在長良川の川底に沈んでいるが、明治時代に名
前を継いだ現在の願證寺に『一向一揆殉教之碑』が立てられて、歴史を今に伝えている。           輪中の郷 蔵
『又木茶屋』の説明版より

由   緒
 長島一向一揆とは、浄土真宗の御本山石山本願寺に対し織田信長が加えた弾圧に対し、石山本願寺
の激に応じた長島門徒の願證寺を中心として、愛山護法の為に織田信長の軍勢と永禄10年より元亀天正年
間にわたって8年間戦った闘争であります。長島門徒に対する信長の最後の総攻撃は、天正2年(1574)
6月13日より4ヶ月にわたり、長島門徒衆の抵抗は壮烈を極めましたが、9月29日全滅の悲運にあい2万人
の老若男女が生きながら焼き殺されるという、言語に絶した残忍な大虐殺が行われたのであります。
 〇殺三城男女2万人臭聞数里という頼山陽の日本外史の一節は、地獄絵さながらの長島門徒衆全滅の
惨状を伝えています。今度杉江願證寺の寺縁を継ぐ叉木願證寺に於いて門徒衆の総意により長島一向一揆
揆400年追悼法要を勤修するに当り、往時の惨禍を偲び、愛山護法の聖業を永久に伝える為に殉教の碑を
建立し祖先の霊に合掌するものであります。
『長島一向一揆殉教之碑』の裏面の文言より

 
 
  この形に深い意味はないそうです。

 
 
 
 

ご住職のお住まいの玄関にあった古地図2枚、写真に撮らせていただきました。



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