見て歩く日本の城と史跡ー三重県松坂市(2)

北畠具教が織田信長の猛攻に耐えた大河内城(大河内町城山525外)

織田信長が5万(7万とも)の軍勢で囲んだ大河内城へは、長く行きたいと思っていました。
大河内城の前に北畠氏関連の木造城(津市)と松ヶ島城(松坂市)の見学を済ませてあったのですが、
両方とも遠目にはブロッコリーのように見えるほど、狭い部分しか残っていませんでした。
それはそれで楽しんだのですが、大河内城は史跡がたくさん残っていて、嬉しく期待を裏切られました。

剣豪だと謳われた北畠具教が、織田信長の攻撃を50日間耐えたというのは、見事という他はありません。
でも、結果的に見れば、神戸氏に3男信孝が、長野氏に弟信包が、北畠氏に次男信雄が養子に入って
しまえば、その時点で伊勢の国は織田のものになってしまったということでしょう。

史跡を訪問するたびに、地元の史跡を愛する皆さんの管理に対するご苦労を思います。(19/06/05 訪問)

大河内城跡付近の地図はこちら

(現地案内板より 以下も同じです。)




地面に横たわる石碑

後ろが大河内地区市民センター
この辺りに搦手門がありました。

絵馬が草叢に・・・。

谷津方向へは行きませんでした。

左の階段を上ったところが二の丸です。

二の丸にあった絵馬

本丸方向に進んで振り返りました。
広いはずの馬場跡は、木が生い茂り、広さが見えません。

御納戸跡

本丸への道。趣があります。

本丸入口に鳥居がありました。

鳥居の向って右側にEとFの道標がありました。

ここにも絵馬がありました。

本丸はかなり広く、神社があります。

大河内合戦400年記念碑

本丸北側の郭らしき場所

西の丸に向かいます。
本丸と西の丸の間の空掘脇に石碑があったので、橋の下の空掘が『まむし谷』なのか?と思いました。

西の丸にも神社があります。

西の丸もなかなかの広さです。

何かの史跡でしょうか?
馬場跡の端(向かって右が馬場跡)を回って、大手門に向かいます。写真は振り返りながら撮りました。

ここを通れば、大手門から直接馬場に行けます。

大手口へ下る道沿いには、きっと当時のものだろう思える石垣がありました。

この辺りが大手口

大手門の絵があったので、楽しめました。

お城を見学した後、駐車場をお借りした西蓮寺にお参りに行こうと階段を登っていると
目の前を大声の男性(ご住職でした。)が走り過ぎたので、何事!と怯んだのですが、
ワルサをする猿を追っ払うためだと伺って、ホッとし、大笑いしました。

織田信長が大河内城を攻めたとき本陣を置いた茶臼山(桂瀬町)

織田信長が大河内城を攻めたとき本陣を茶臼山に置きました。
茶臼山は、地図上には名前が出ないのですが、麓に大河内神社があるところです。
信長が腰かけたと言われる石が地元の人によって保存されているそうです。
                  (19/06/05 通りすがりに)


茶臼山 大河内神社

田丸城消失後北畠(織田)信雄が居城とした松ヶ島城(松ヶ島城字城ノ腹))

ネット上で見た松ヶ島城は、こんもり小高い丘の上にあるように見えたのに、樹木で覆われて外からは様子が
分かりません。発掘調査が行われてから月日が経ったことを知らされました。
織田信雄が北畠の城・田丸城から松ヶ島城に移ったのは、田丸城で火災が起こったからだと読んだことがあります。
織田信雄は、田丸城でも天守を造り、ここ松ヶ島城でも天守を造りました。
弟の神戸(織田)信孝も神戸城に天守を造ったので、当時は天守を造るは織田家の息子としての権威の象徴だった
のでしょう。案内板を読んで、蒲生氏郷が松坂城を築いた経緯が分かりました。

松ヶ島城は、小牧長久手の戦いで羽柴秀吉に攻撃され、落城したという記述を見たことがあります。
                         (19/06/05 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)

三重県指定史跡 松ヶ島城跡
面 積 287平方メートル 指 定 昭和31年12月3日 所在地 松阪市松ケ島町城ノ腹
 松ヶ島はかつては保曽久美(細汲、細首とも書く)といい、参宮古道に沿い、三渡川の河口を控え
た海陸交通の要衝であった。
 天正8年(1580)織田信雄(信長の次男)は、南伊勢統治の居城を田丸城(度会郡玉城町)から
この地に移し、松ヶ島城と称し、五層の天守がそびえていたという。その後、信雄の家臣津川義冬、
滝川雄利を経て、同12年豊臣秀吉の武将蒲生氏郷が12万5千石の大名として入城した。
 ところが氏郷は四五六森に着目して築城し、新城下松坂に移り、本城下の町人や寺社はすべて
強制移住させられて松ヶ島は瞬時にしてもとの一漁村に変容した。
 古図や検地帳には天守跡・堀之内・丸之内・城之内・南之内・日之丸といった城郭名や、殿町・
本町・西町・紙屋町・ほうく町・鍛冶町という町名がみえ、往時の繁栄をしのばせる。
 ここに残る指定地は俗に天守山と呼ばれ、付近から金箔をおした古瓦片などが出土しており、
本丸天守跡と考えられる。
昭和62年3月30日 松坂市教育委員会





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