見て歩く日本の城と史跡ー三重県津市(1)

南北朝の争いに立ち上がった北畠満雅による岩田川の戦い(幸町5−2)

足利義満の時代に、南北朝の争いは収まったと学校では習いました。
しかし、北畠親房の曾孫・北畠満雅が立ち上がり、合戦に及んだのが岩田川の合戦です。
満雅の忠烈を称える碑が、岩田川の近く小さな神社に建っています。(19/ 9/21 訪問)

(現地案内板より) 応永22年(1415)は、4代将軍足利義持、称光天皇の時代。
永享元年(1429)は、5代将軍足利義教、後花園天皇の時代。

津市三川のうち一番南の岩田川

北畠満雅卿忠烈遺跡

織田信長の生母土田御前のお墓がある塔世山四天王寺(栄町1丁目892)

蘇我馬子と物部守屋が仏教を日本に取り入れるかどうかで合戦となったとき、聖徳太子は、馬子とともに戦いました。
戦局が不利な状況にあったとき、太子は四天王の仏像に「もし、この戦に勝利できたら、四天王を祀る寺を建立します。」と祈りました。
物部氏を破ったのち、太子は4つの四天王寺を建立し、その1つが津市にある四天王寺だと言われています。
津市四天王寺には、重要文化財である太子16才の像があります。
これは太子の父用明天皇の病気平癒を願う様を描いたもので、いわゆる太子考養像と呼ばれています。


四天王寺は、津藩の初代藩主藤堂高虎夫妻の菩提寺でもありますが、特筆すべきは、織田信長の生母土田御前のお墓があることです。
信長の同母弟であると言われている織田信包は、同じく津市内にある伊勢上野城に永禄12年(1569)入城し、
その後、津城を築き、天正8年(1580)にはほぼ津城を完成させました。

信包を頼り津で暮らしていた土田御前は、文禄3年1月7日(1594)津で亡くなりました。             (13/ 9/ 4 訪問)

本能寺の変の折、織田信長の母土田午前は安土城にいたが脱出、
日野城にかくまわれ、ついで織田家の家督をついだ清州城の孫・信雄の
庇護を受けたようで、『織田信雄分限帳』に土田御前と記される
「大方殿様」が知行を受けていたことが記される。信雄は徳川家康と組み
信長後の覇権を豊臣秀吉と争い、やがて講和したものの天正18年
(1590)に改易、土田御膳はこの後、安濃津城の信包を頼ったものと
○○○○○なるまでの晩年を○○○
暮らし、亡骸は四天王寺に葬られた。
(現地案内板より  以下も同じです。)


二代目藩主高次の時代に再建された山門

   聖徳太子像(重要文化財)

コンクリートの本堂

この家紋は?
織田信長の母親、花屋寿栄禅尼(土田御前)の墓



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