見て歩く日本の城と史跡ー三重県津市(2−3)

 北畠親房・顕家親子を補佐した結城宗広を祀る結城神社(藤方2341)

梅の名所として有名な結城神社は、南朝のために働いた北畠親子を補佐した結城宗広を祀る神社です。
ここに後醍醐天皇の綸旨など、歴史的に価値の高い文書が45通も残されています。
綸旨の写真が案内板に出ていて、興味深く見ました。        (19/06/05 訪問)

令和4年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する結城朝光の曾孫が、結城神社の御祭神結城宗広だそうです。

(現地案内板より 以下も同じです。)



史跡か?と思いましたが、そうではないようです。

北畠氏の分家・木造氏の木造城(木造町1059)

北畠氏の分家木造氏の城跡は、当目には田んぼの中にある大きなブロッコリーのようでした。
この城跡に残る石碑は、木造氏の末裔の方や有志の皆さまのお力でできたもののようですが、
木造城に対する並々ならぬお気持ちを汲み取ることができ、感動しました。

『織田信長が伊勢に侵攻したとき、織田(北畠)信雄の後見人であった滝川一益が
安濃津城、渋見砦とともに、木造城も支配していた。また信長が伊勢参りをしたとき、ここ木造城で
泊まった。』と『信長公記』に記録が残っています。        (19/06/05 訪問)

北畠親房 北畠顕家
北畠顕信
北畠顕能 北畠顕泰 北畠満奏
北畠満雅 北畠教具
大河内顕雅
木造顕俊
北畠顕家 21歳で討ち死にした花将軍
北畠満雅 雲出川の戦いで奮戦、岩田川の戦いで討ち死に


(現地案内板より 以下も同じです。)

往時ここに城あり。木造城といふ伊勢の国司北畠顕能の二男顕俊分家し正平21年
この地に城郭を構へ木造氏としてここに居住す。
以後10代200有余年にわたり木造家の居城たり。この城始めは西南方凡そ300米
のところにありしが7代俊茂の時、城地堅固ならざるを以てこの所に移す。室町・戦国
時代の兵乱に○○戦城となり天正12年織田羽柴両家の争の後遂に廃城となる。
以後300有余年草叢のうちに埋もれたるをこの度有志相図り古を偲びてこの碑を建つ。
                昭和42年建国記念日     この城創建後602年
                                      木造武次 識

城址碑「木造城址 二十一代 木造武次書



雲出川の完璧な三角州に造られた北畠氏の城・矢野城跡(香良洲町地家)

津市香良洲町は、完璧な三角州で要害の地と言えます。子供の頃香良洲に住んでいて、
『馬場(ばんば)』という地名に記憶があります。ここに南北朝時代、室町時代、戦国時代に城がなかったとは
思えないので、最近ネットで調べてみたところ、『矢野城跡』という言葉が出てきました。
香良洲町は明治まで『矢野村』という名だったとのこと。
矢野城の城主『矢野下野守』という名は、北畠氏の家臣が矢野村に赴任してきてから名乗った名前でしょう。
あるいは、元々長野氏時代から香良洲にいた矢野氏が、北畠氏の家臣になったのかも知れません。

矢野城跡がどこであったか、特定はされていないようですが、『寺家垣内』だろうという説と寺家311にある
『西方寺』のある所ではないか、という説が見つかりました。
南北朝時代、室町時代、戦国時代に廃城になった城は、そのまま放置されたり、耕作地になったりもありますが、
寺や神社が造られたりすることが多いので、その意味から、西方寺のある場所かな?と思うのですが、
他の候補地と西方寺が近いので、どちらも矢野城の城郭内であったとも考えられます。

コテコテの南朝派だった北畠親房のひ孫・北畠満雅が北朝に反旗を翻した『雲出川の戦い』で、矢野城は、
雲出川流域近くにある木造城(北畠親房の孫が築城)と共に、重要な役割を果たしたことも、考えられます。
香良洲には、香良洲漁港がありますが、ここがかつての矢野浦だったかな、とも思います。

上記、文献等がなく、単なる推測で、今後情報があり次第追加訂正しようと思っています。   (未訪問)

室町時代には伊勢湾を警固する港と矢野下野守の居城を擁していた。中世には長野氏が支配していたが、
後に北畠氏に代わり、北畠氏の家臣である矢野下野守が城を置いていたという。城跡は小字地家垣内と推定
される。北畠氏は矢野浦に何度も「新関」を設け、神宮は再三に渡って新関の廃止を訴えていた。

正長元年(1428年)7月、称光天皇が崩御して持明院統の嫡流が断絶すると、同年1月に第6代目の将軍に就
任した義持の弟・足利義教は、前もって後小松上皇と謀り、持明院統の伏見宮家の彦仁王(後花園天皇)が
践祚した。これに不満を持った後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は北畠満雅を頼り、居所の嵯峨から逃亡した。
満雅はこの当時幕府と対立していた鎌倉公方・足利持氏と連合し、小倉宮を推戴して反乱を起こした

だが、満雅の反乱に激怒した義教により派遣された伊勢守護・土岐持頼(世保家)率いる幕府軍に攻められる。
北畠勢は
雲出川の戦いにおいて幕府軍を大破・敗走させるが、更に幕府から土岐持益・長野満藤・赤松満祐・
山名持豊らが派遣された。


同年(1429年)12月21日、満雅は伊勢阿濃郡岩田川で長野満藤・仁木持長・一色義貫らと戦い、討ち死にした
(岩田川の戦い)。この戦いで北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられた。
満雅が戦死したとき、子の教具はまだ7歳であった為、実弟の大河内顕雅が職務を代行し北畠家を存続させた。

(Wikipedia より)
注:足利義教は、8代将軍足利義政の父で、横暴を極め家臣に殺された人です。




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