見て歩く日本の城と史跡ー三重県津市(2)

 築城の名手藤堂高虎が完成させた津城(丸の内)

仕える主君を次々と変えた藤堂高虎に対する評価はマチマチです。
要領が良く節操がない、という悪評と、真に自分の力量を評価してくれる主君を探す、
という彼の生き方を評価する意見とがあります。
最終的に徳川家康に仕え、津藩の礎を作ったのですから、私は好ましく思っています。

築城の名手と言われた高虎ですので、それなりにじっくり見てみました。
江戸時代に入り、必ずしも要害城にする必要はないのですが、
岩田川と安濃川をうまく利用し、又武家屋敷と町家をうまく区分けして興味深い城です。
因みに、『安濃津城』をシンプルな『津城』に変更したのは、藤堂高虎だと言われています。

織田信長が伊勢に侵攻したとき、織田(北畠)信雄の後見人であった滝川一益が
渋見砦、木造城とともに、安濃津城も支配していたとどこかで読んだ覚えがあります。
織田信長の伊勢侵攻の前に、長野氏の城があったということなのでしょう。
                                   (17/ 8/30  訪問)
シロモチくん

シロモチくん 津藩初代藩主 藤堂高虎が浪人時代に、餅屋から受けた恩を忘れな
いよう藤堂家の旗印を「丸もち3つ」にした逸話から生まれました。
伊賀上野城にある藤堂高虎の兜

津市役所8階から見た津城跡

(現地案内板より  以下も同じです。)

津城は、戦国時代天正8年ころ織田信長の弟信包によって築かれ、慶長13年藤堂高虎が移封○
○外堀と内堀を造り、本丸と西の丸の周囲は石垣で築き、すみやぐらを建て、西南のすみには天
守台を設けるなどして、新築同様の大改修を加え、本格的な城が構築された。
明治維新廃藩置県の際とりこわしの運命にあい、本丸跡、西の丸跡などのみがなごりをとどめた。
第2次大戦により津市街が大戦災をうけたので、この戦災復興記念として高山神社を南西に遷座、
その跡を公園となし、ゆかしいお城公園を完成した。
このゆい緒ある公園は、戦災で大きないたでを受けて津市民のよいいこいの場となり、長く市の名
所として光彩をはなつことであろう。






 
シロモチくん

ゴーちゃん



本丸

 
 天守台跡 上には登れません。    天守台跡 埋門近くから撮影

津城の天守閣は、長野(織田)信包が築いたものでしょう。同時期に伊勢の国の国衆に養子に入った
甥の北畠(織田)信雄、神戸(織田)信孝も、夫々の居城に天守閣を築いています。
信包改易後入城した富田信高の時代、関ヶ原の前哨戦としての安濃津城の戦いで、
天守閣は消失して、江戸時代を通じて藤堂藩による再建はなかったと思われます。、


 
東鉄門は、破壊されました。 





丑寅(うしとら):北東   戌亥(いぬい):北西

 
 復元された丑寅櫓(元々はなかった千鳥破風が加えられています。)

 
    丑寅櫓から見る かつての東之丸

 
 戌亥櫓方向の堀

  丑寅櫓方向を振り返る。

 
 丑寅櫓と 戌亥櫓間の通路から見る本丸

    戌亥櫓跡

 
 戌亥櫓跡から見る西之丸


 
 この案内がなければ気が付かない西鉄門虎口跡

 
西之丸脇の堀

堀を渡って西之丸に入る。

 
 入徳門

   西之丸跡に造られた日本庭園

 
 西之丸跡に造られた日本庭園

   西之丸から見る戌亥櫓跡

 
 かつての二之丸に建つ津市役所
市役所の向って右に『お城西公園』があります。
   


            左:教会の向こうが津城      右:お城西公園、その向こうが津市役所    

この4枚は、19/11/18 に撮ったお城西公園の写真です。

藤堂高虎を祀る高山神社(丸之内27-16)

藤堂高虎を祀る高山神社は、城の本丸のほんの近くにあります。
「伊勢は津で持つ、津は城で持つ」と言われる津城を築いた高虎なので
高山神社をお参りしながら、感慨にふけりました。
 (17/ 8/30  訪問)

二代目藩主高次の時代に
再建された山門

この家紋は?

(現地案内板より 以下も同じです。)


津藩初代富田信高が戦った安濃津城の戦い(丸の内)

津藩初代富田信高は、2代藤堂高虎の陰に隠れて余り目立たないように思えます。
津城に行くと織田信包の記述はあっても、富田信高については何もありません。
でも、関が原の前哨戦の一つとして、東軍に属した富田信高、分部光嘉(伊勢上野城主)等が
毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された西軍と戦いました
東軍勢は1700、東軍勢は30000。これは、石田三成の忍城攻めよりも守る側は分が悪いです。
西軍に属した海賊大名九鬼嘉隆の存在もあって、富田信高側は結局開城に至りました。

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったので、富田信高、分部光嘉に加増があって富田信高は
安濃津城に復帰しましたが、伊予宇和島藩初代藩主に転じた後、改易されました。

その後、津藩は江戸時代を通じて藤堂家の支配するところとなりました。
安濃津城を津城と改名したのは、藤堂高虎です。

富田信高の史跡を探したのですが、特に見当たりませんが、今後も、探したいと思っています。
ネット上では、信高夫人の雄姿がありますので、ウィキペディアから画像を転載させていただきます。




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