見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県千曲市

村上氏の支城・荒砥城(大字上山田3509−1)

荒砥城は、村上義清の配下として名を馳せた山田国政の居城だったそうですが、
その山田国政は天文20年(1551年)4月、真田幸隆の策略によって、城代を務めていた砥石城において討死しました。
天文22年(1553)3月、村上義清の要の城の1つ狐落城は、村上氏側内部分裂をはかった晴信の戦略によって落城しました。
このことによって村上義清は、戦わずして葛尾城を捨てることになるのですが、このとき荒砥城も信玄の猛攻を受けて落城しました。
葛尾城を脱出した義清夫人は荒砥城を目指したのですが、途中で追手に追いつかれ自刃します。
仮に荒砥城まで辿りつけても、命が助かることはなかったでしょう。

義清・国清親子は、どのようなルートで追手から逃れたのか?
このときの荒砥城の責任者は誰だったのか?ご存知の方教えてください。

現在荒砥城は、史跡公園として復元されており、NHK大河ドラマ『風林火山』や『江』などの撮影に使われました。
                                                      (13/ 8/26 訪問)

荒砥城の遠景  中腹の建物は五の廓?

(現地案内板より  以下も同じです。)


荒砥城跡
荒砥城は中世戦国期、地域の豪族村上氏史族の山田氏
による16世紀頃築城になる要害、山城である。しかし○○
山城と同様にしてその出自は明確でない。幾たびかの攻防
記録も残されているが、戦国期末には山田氏から武田方屋
氏のもの、上杉方○番衆による交代管理にもなったりした。
天文11年(1583)4月戦国のならいか松代の上杉方海津
城副将屋代秀正(勝永)は徳川方内通が発覚するや、この
山城に籠城の上、最後の抵抗を試みている。だがしかし北
信濃諸将の攻撃を受けて週日にして落城した。
  その後は廃城となり今日に至っている。
平成7年3月吉日            森嶋稔撰   

二の廓

二の廓を見下ろす。

本廓から見る葛尾城 本廓

VS 川中島の戦い初戦の地・武水別神社(大字八幡3012番) 

川中島の戦いの初戦は、千曲市にある武水別神社付近から千曲川までの間で戦われたということを、ネットで調べて知りました。
現地では、とうとうと流れる千曲川の畔に立って、往時を偲びました。
武水別神社へは、もちろん武田信玄絡みで行ったのですが、武水別神社が木曽義仲縁の神社だと知って、驚きました。
美しい額絵の中でも『木曽義仲出陣の図』は、とても凛々しく、見事です。                (19/05/06 訪問)


(現地案内板より 以下も同じです。)


大鳥居(正面)

大鳥居(背面)





武水別神社の拝殿


JR姨捨駅付近から見下ろす千曲川

とうとうと流れる千曲川

姥捨の千枚田



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