見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県茅野市(1−2)

諏訪大社前宮の要害城・干沢城(宮川安国寺)

諏訪大社上社前宮は、大祝の居館であり、干沢城は、前宮のすぐ東にあり要害城の役目をはたしていました。
文明15年(1483)、当時分裂していた諏訪氏は、惣領家と大祝家との間で内部抗争を起こし、
大祝家諏訪継満は諏訪大社前宮の要害城・干沢城に籠りましたが敗れて高遠に逃れました。
これを「文明の内訌」と呼びます。
翌年、継満は再起を図って「武居城」を本陣として惣領家が占有する干沢城と相対しましたが、
結果、継満は惣領家諏訪頼満と和議を結び、その結果、大祝・惣領の二重構造は解消されました。

その後干沢城がどうなったかははっきりしていませんが、武田晴信が諏訪に侵攻したとき、
晴信と同盟関係にあった高遠頼継が占拠したようです。    (14/ 7/ 9 訪問)


    樋沢城(下沢城○○)
 上原城・桑原城・上川○積地をはさんで最○○○安国寺城とも呼ばれて、宮川を裾にひかえた極めて
要害な山城である。諏訪大祝の居館でもあった前宮を○し、前宮を守るために重要な砦として利用され
たものであろう。
 文明15年正月、大祝継満が上原城主諏訪政満一族を皆殺しにして総領家の乗取りを計って於樋沢
城にたてこもったが、総領家を支持する一族や神長官に攻められて高遠にのがれたが、病床にあった
父頼満は討たれた。又天文11年に武田勢が諏訪に攻め入ったときは樋沢城は武田氏に呼応する
高遠勢に占領され、安国寺は火の海になる等戦国時代を通じて数々の戦に利用された。本丸・曲輪・
二の丸・三の丸・空掘の跡が僅かに当時の面影をしのばせている。
  昭和45年3月1日                 茅野市教育委員会
    干沢城跡(旧県指定歴史○)    
古代より前宮を守る砦としてつくられた上社大祝諏訪氏の拠城であった。
支城としては、東に駒形城、西に武居城、荒城、大熊城、真志野城、有賀城、小坂城、花岡城などがあ
り、諏訪の代表的山城で、本丸、二ノ丸、三ノ丸、空濠、曲輪、石塚の跡を残している。○戦○○変が○
文明15年○前宮神殿の変で上社同族○いのとき、またその翌年逃亡した継満逆襲のとき、さらに戦国
時代になると武田晴信の諏訪攻撃に呼応した高遠頼継が杖突峠を攻め下って占領。その后、武田勢と
の安国寺門前での大激戦で兵火にあった。
安国寺史友会       
    安国寺院墓所
天下を平定し足利幕府の大将軍となった尊氏は、当時の名僧夢窓国師のすすめにより興国6年(1345)
にいたって光厳上皇に奏上して全国66ヶ所に安国寺利生塔を造立した。信濃国における安国寺はこの
地におかれ、この墓所に歴代の安国禅寺住持の墓標がある。
右奥に安置するのが開山の夢窓疎石の碑であり、戦国時代に武田信玄と共に諏訪に来て、この寺の
中興開山となった。麟岳和尚の碑も苔むして並んでいる。
なお、この墓所の城山の中腹に荒神社があり、御廟奥院とも云う。
                               安国寺史友会
(現地案内板より 以下も同じです。)


北側登山口にある夢窓国師の墓

北斜面の厳しい登り
干沢城主廓

戦闘石の案内板付近から見た主廓
主廓南下にある戦闘石

案内板はなかったが、二の廓と思われます。

二の廓と三の廓の間の空堀
二の廓と三の廓の間の空堀を三の廓に向かって左に進むのが前宮に繋がる鎌倉道

三の廓

三の廓の向うに四の廓
四の廓

四の廓から見る三の廓
城の北側・左干沢城 干沢城と前宮を繋ぐ鎌倉道

前宮に到着 前宮から見る干沢城

安国禅寺(宮川安国寺2819)

延元3年(1338年)に足利尊氏の命によって、当時足利幕府の奉公人であった諏訪円忠が建立したお寺です。
近くに大祝の居館であった諏訪大社前宮があること、干沢城の城下であることなどから
かつては大変な賑わったのですが、あいつぐ宮川の氾濫により、次第に衰退して行きました。

戦国時代になって、諏訪頼重の叔父諏訪満隣によって再建されて、武田信玄も保護しました。
安国寺という寺の名前が地名になって、現在も残っています。
安国寺には、足利将軍家と諏訪家の位牌が安置してあるので、本堂正面に両家の紋があります。

共同戦線を張って諏訪総領家を攻めた武田晴信と高遠頼継は、諏訪頼重の自刃後、
取得した領地が少ないことを不満に思った高遠頼継によって、晴信vs頼継の合戦になります。
この時頼継が本陣にしたのが、この安国寺。安国寺の前が合戦場となりました。
結局、頼継は負けて杖突峠を越えて逃げて行きました。          (07/ 8/ 8 訪問)

(現地案内板より)

鐘楼が山門になっています。

入るとすぐ美しい庭園があります。
鐘楼の山門を通ると
更に門があります。

諏訪家と足利家の紋がーー。
安国寺の道を挟んだ向かい側に、
『安国寺門前古戦場』の
案内板があります。

領地の分割に不満を持った高遠頼継が
兵を挙げました。

晴信は、諏訪頼重の遺児虎王丸を擁し、
5千の兵を引き連れ戦ったとあります。
激戦で、双方合わせて700人に死者が
出たそうです。
(08/ 1/ 5 訪問)



甲斐武田氏の史跡・目次][年表