見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県茅野市(1−4)

諏訪氏の一族、矢ヶ崎氏の居城だった鬼場城(本町東)

鬼場城というので、鬼がいたのか?と思ったのですが、お贄場(にえば)が訛って鬼場になったそうです。
別名矢ヶ崎城ともいうのだそうで、諏訪氏の一族、矢ヶ崎氏の居城だったと思われます。
NHK大河ドラマ『風林火山』で、矢崎十吾郎という登場人物があったので、
矢ヶ崎氏との関連を考えてしまいましたが、どうも矢崎十吾郎は実在人物ではないようです。

諏訪氏の一族矢ヶ崎氏の城であったのが、後に武田氏の城となったという歴史があるようです。
                                           (09/ 3/21  訪問)

(現地案内板より)

県道192号、御座石神社の
信号付近から撮影の鬼場城。
右の写真の階段は画面右側にあります
県道192号(蓼科道路)から登る
険しい道
城の南側からの登山道です



険しい階段を登ると展望台があって、192号線が良く見えます。
1級河川上川に橋が2本。左の大きい橋が鬼場橋で、右側が旧道の橋です。
今は道ができてしまったけれど、かつては上川が鬼場城をガードしていたのだと よく分かります。

展望台を過ぎると、階段がなくなり
急坂を登らなければなりません。
城は、東から西へと伸びています。

途中に神社があったのですが、
鳥居は松の木に
持たせ掛けてありました。
二の郭跡の下側にある
平らな部分です。
二の郭跡
送電線の鉄塔が立ち埋め立てなどが
あって様子が変わったそうです。

土塁に囲まれた主郭跡。はっきりそれと分かります。

主郭の向こう側に、
二筋の空堀が残っています。
この二筋の空堀は、とても深くて、
ここまで残っているのに驚きました。
左の写真は、主郭に近い方の空堀です。

写真が拙くて、堀の深さがこれでは
分からないのが 残念です。

武田信玄が川中島からの帰途賛美した『穂掛石』がある御座石神社(本町東15)

武田信玄が川中島よりの帰途、賛美したと伝わる『穂掛石』は、茅野市の御座石神社にあります。
『穂掛石』の名前の由来は、境内の案内板にありました。
ナルホド、穂を掛けるのに具合のよさそうな石だと、実物を見て納得がいきました。
それにしても『御座石神社』というからには、信玄が腰掛かけた石でもあるのかな?
と思ったのですが、見当たりませんでした。
          (21/ 5/19  訪問)  

(現地案内板より)

穂掛石


古い案内板で凸凹しています。 本殿に向かって左に穂掛石があります。

茅野市内に残っていた『明智屋敷』という地名(塚原) 

天正10年、織田信忠は諏訪を経由して甲府に攻め込みました。武田家滅亡の時です。
その後、首実験をしながら、信長も諏訪を経由して甲府に入りました。
信長は、諏訪では諏訪大社本宮隣の焼け残った法華寺を本陣として逗留したのですが、
そのとき、戦さの模擬訓練をしたという話が残っています。

この模擬訓練では、一方の大将が信長、もう一方の大将が明智光秀だったそうです。
結果、明智軍が勝利し、光秀は態度大きく信長に接したとか。
模擬訓練とはいえ、気分を害した信長は光秀を罵倒し、これが本能寺の変に繋がったという話は本当かどうか・・・・・。
因みに、この模擬訓練について『信長公記』に記述はないそうです。

しかし、諏訪藩5代藩主忠林が作成した地図に、現在の塚原あたりに『明智屋敷』という地名が残っていたんだそうです。
そこが模擬訓練の時の明智光秀の本陣だったとか。
『ちのスカイビューホテル』の敷居内にある森ノ木社という神社の北の方ということで、
塚原北の交差点の北側だったと思われます。             (13/ 2/21 記)  (20/ 7/ 6 訪問)

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/mieru2/morinoki.htmから転載させていただきました。

:森ノ木社

塚原北の交叉点  交差点の左側がかつての『明智屋敷』か?

『塚原北』の交差点の左側、ここも『明智屋敷』の一部かも?

この辺りかなぁ、と見当をつけて写真を撮りました。

(現地案内板より)

ちのスカイビューホテルの前庭にあります。





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