見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県茅野市(2−1)

 川中島合戦時の武田軍の馬寄場(玉川)

案内板を読んで、馬寄場という地名が残っているのかと思いましたが、
そうではないようです。でも、かつてはあったのかも知れません。
北山の湯川砦に合戦の知らせがあると、兵が集まったと聞きました。
甲府から全軍が出陣するのではなく、要所要所で兵馬や食料の補給
ができるよう、しっかりシステムができていたのですね。
                          (22/ 6/21 訪問)



諏訪氏の一族の居城『粟沢城』(玉川粟沢)

茅野市玉川を通過中、上川を渡ったところで小高い丘を見上げると、お寺らしきものが見えました。
川があって、崖の上という立地条件を考えると、戦国時代のお城があるのでは!と見当をつけ、
脇の道を登っていくと、やはり!でした。
お寺と見えたのは観音様で、

近くで雪掻きをしておられる男性2人がいらっしゃったので、伺ってみました。
『粟沢城』は、諏訪氏の支族粟沢氏の城だったところ。
諏訪頼重の従兄弟・諏訪頼豊が城主になったこともあり、武田氏の支配も受けたとのことでした。
従兄弟の頼重が武田信玄に殺され、続いて父満隣も信玄に殺された後、
諏訪頼豊は諏訪家の家督を継承し、弟の頼忠が諏訪大社大祝となりました。
後になって、織田軍が諏訪に侵攻したとき、頼豊は鳥居峠の戦いで敗れて織田軍に処刑されました。
武田家滅亡後は、大祝頼忠が諏訪藩の礎を作りました。

雪に埋もれて堀跡や土塁跡は見ることができなかったので、
雪解けの後また行ってみたいと思っています。
『粟沢城』付近には、大泉、小泉などの地名がありました。
粟沢城は、別名和田城とも呼ばれていました。          (2013/ 1/17 訪問)


逆光ですが『粟沢城跡』と書いてあります。
このあたりが、本丸があったところでしょう。

城郭の一部にある粟沢観音
『小泉山』とありました。
お寺の壁にあった絵。
いつ描かれたものか、気になります。

道沿いにあるもう一つの登り口。
川が城を警護しています。

         (14/ 9/12 訪問)

粟沢鎮守矢作社・武田八幡社合殿(玉川粟沢)

粟沢は八ヶ岳山麓の肥沃な土地で、鎌倉時代から集落があったと伝えられています。
人々は矢作社を守護神として厚く敬ってきました。
中世になって諏訪越中守頼豊が諏訪氏を継承し、武田家に仕え、粟沢城の城主になりました。
天文18年(1549)、矢作社を改築するにあたり、山梨県北巨摩郡神山村にある武田八幡社の
分霊を勧請して合祀し、武門の守護神としました。        (2014/ 7/16 訪問)

鳥居の向うに矢作武田八幡社

本殿
本殿の周りに4本の御柱
これは一の御柱
矢作武田八幡社から見る粟沢城

信玄のお茶清水(米沢)

長野県道192号線(ビーナスライン) を朝倉山城を探しながら北に向かって走っているとき
右手に『お茶清水』の看板を見つけました。

『お茶清水』は、信玄が北信濃攻略のため作った『中の棒道』沿いにあって、信玄がここでお茶の飲んだ
といういわれがあると、茅野市が作った案内板に書いてありました。
ということは、中の棒道は、この地を通っていたということです。『中の棒道』も繋がってきたな!と思いました。

ここは、軍用道路の水の補給場所としても使われたいたのだろうと思います。
 2006/11/15 頃 訪問)

(現地案内板より)

お茶清水

煙台ネットワーク・関守傳十の墓近くの城山(槻木)

次に、棒道通過点とされているのが、『関守傳十の墓』です。
『武田家家臣 関守傳十の墓』と石碑に刻まれていますが、これは昭和になってから
地元の行者『三浦弥助氏』が建てたもので『武田家家臣関守傳十の墓』と彫られています。

傳十のお墓は柳川と鳴岩川との交点にあり、
近くの城山は、『朝倉山』→『関守伝十の墓近くの城山』→『雀ヶ森』→『鼻戸屋』と続く
狼煙の中継地で、傳十は、狼煙台の番人も兼ねていたそうです。 (
2009/ 9/ 6 頃訪問)

関守傳十の墓

狼煙台であったろうと言われる城山 松の木の辺りに
川を渡る棒道があったとか。



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