蔦木城跡(上蔦木) |
かつて蔦木は、甲州領でした。
武田晴信の妹寧々が諏訪頼重に嫁いだとき、化粧料として、甲斐と信濃の国境線の移動がありました。
かつて、甲斐と信濃の国境線は、現在の立場川(という説が有力)だったのですが、
それが現在の甲六川に変更になった、つまり、
立場川と甲六川に挟まれた土地が、武田家より諏訪家にプレゼントされたのです。
晴信が国主になった頃、蔦木越前守という人物が登場しているので、
蔦木にも武川衆が住み着いていたのではないかと想像しています。
蔦木城は、馬場美濃守(教来石民部)の出城であったという文をネット上に見たことがあるのですが、
馬場美濃守は、武川衆のリーダー的存在だったので、それもありかと思います。
武川町山高にある大津山実相寺に、蔦木越前守の墓があります。 (09/ 3/24 訪問) |
井戸尻考古館を背にして撮った蔦木城跡(富士山が写っていません。残念!) |
↑井戸尻考古館 |
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茶線:
青線: |
国道20号線(甲州街道)
県道信濃境停車場線 |
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町役場で買った地図には『葛木城跡』となっています。
これは『蔦木城跡』の間違いでしょう。
城跡まで、県道信濃境停車場線から歩けます。途中、
お城に向かって左側に小さなお宮が、右側に石垣のある
スペースがあります。 |
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今は何もない、蔦木城頂上。
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頂上から見る井戸尻考古館 |
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中央の丸に『簾扉』とあります。
蔦木城との関連などは、分かりません。 |
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お宮とお城跡の中間にあるスペース。
昔、人が住んでいたのか、あるいは、畑だったのか?
蔦木城の居宅部分だったのか?などと、想像しました。 |
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武田家縁の鹿島山三光寺(上蔦木) |
寒梅と福寿草で有名な三光寺が、武田家縁の寺であることは知りませんでした。
1400年頃、武田家11代信重が僧となって父10代信満のために創建した寺を、
後の世の人が鹿島山に移転し、その後鹿島山三光寺となったと富士見高原百科事典(ウェブサイト)にありました。
そうだったのかと思い再度訪ねてみると、あちこちに武田の花菱があったので、武田家縁のお寺であったと納得しました。
三光寺には、特に案内板とかはなく、静かな佇まいを見せています。寒梅と福寿草が満開で、楽しめました。
(08/ 3/11 訪問) |
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国道20号線沿いに、静かに佇む三光寺
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花菱の家紋が武田家縁の寺であることを、物語っています。
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寒梅と福寿草が見ごろでした。 |
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もう一つの信玄堤(上蔦木) |
信玄堤というと竜王町が有名ですが、竜王町より釜無川を上った富士見町蔦木にももう一つの信玄堤があります。
河原地であった蔦木は釜無川の氾濫に悩まされていました。
蔦木は、天文9年(1540)まで甲斐領だったため、武田家が治水工事を行い、その一部が今も残っています。
それが、もう一つの信玄堤です。春先に見たときは、これほど草が茂っていなかったので、石組みがもっとよく分かります。
(05/ 9/ 4 訪問) |
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蔦木にある信玄堤 |
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信玄堤の石組み
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現存している『川除古木』 |
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キササゲ |
これは、武田家とは関係ないと思うのですが、信玄堤と国道20号線の中間くらいの地点に『川除古木』があります。
『川除古木』は信玄堤とともに蔦木を水害から守ってきました。現存しているのは、キササゲ1株、サイカチ2株、ケヤキ1株です。 |
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甲斐・信濃の国境線・甲六川(下蔦木) |
武田信虎の時代、甲斐と信濃の国境は、現在の国界橋から約北西方向にある立場川でした。
天文9年(1540)、信虎は娘寧々を信諏訪頼重に嫁がせることで、長年争ってきた諏訪氏と和睦します。
そのとき寧々の化粧料として、国境線を立場川(当時は境川、あるいは堺川)から甲六川に移動させました。
つまり、甲斐の領土の一部を諏訪氏に与えたということです。
このとき国境の川の六部を甲斐の領土とし、四部を信濃としたことから、国境の川を甲六川と呼ぶようになりました。
道の駅『蔦木宿』でほうとうが名物になっているのは、富士見町蔦木は元々は甲州領だったからでしょう。
現在も、長野県北杜市と山梨県富士見町の県境は、甲六川と釜無川になっています。
7月27日、甲六川が釜無川に合流する地点を見に行ってきました。 (09/ 7/27 訪問) |
下蔦木の北東、20号線沿いに上蔦木があり、この
頁の中程にある蔦木城の案内地図に繋がります。 |
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釜無川へ流れ込む甲六川の拡大写真
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青い●の地点から見る国界橋(向こうに見えるのは旧国界橋)
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上の地図上の青い●地点は、 甲六川を渡る、長野県富士見町と
山梨県小渕沢町との県境です。
左の写真は、この地点で見た甲六川です。
橋の両端に、県境の看板があります。 |
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信玄直裁碑(机) |
国道20号線を諏訪方面に走ると、瀬沢大橋の手前で戻る感じで右に登る道があります。
これは旧甲州街道なのですが、この道の左手崖の上に『信玄直裁碑』があります。 |
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崖の上にあるので、碑にたどり着くには
回り込む感じで後ろから
行かなければなりません。
もう道もなくなったところを、
藪こぎして進むとこの碑に出会えます。
かつて、『瀬沢』と『机』で
境界争いがあったとき、
信玄直々に裁定を下したという碑ですが、
この碑が指すものが、
もう一つよく分かりません。
碑に書いてある文字が読め取れません。
(05/ 9/ 4 訪問) |
信玄直裁碑
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甲
斐
将
軍
武
田
信
玄
公 |
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瀬
沢
村
中 |
上
○
○
迎
見
蔦
木
九
机
村
中 |
元
亀
三
年
十
月
○
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碑の表に |
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碑の裏に |
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碑の裏の下面に |
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