見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県富士見町(1−2)
武田信玄による瀬沢合戦関連
瀬沢合戦場(落合瀬沢)

武田信玄が晴信と名乗っていた時代の天文11年(1542年3月9日)
林城主小笠原長時・諏訪頼重・北信葛尾城主村上義清・福島城主木曽義昌の
連合軍と富士見町瀬沢で戦い(瀬沢合戦)、勝利したという話が甲陽軍艦に出ているそうです。

諏訪頼重は、1540年武田信玄の妹禰々と結婚し、信玄とは縁戚関係にありました。
木曽義昌も信玄の姉真理姫と結婚するのですが、それは1555年のこと。瀬沢合戦当時は縁戚関係にはありませんでした。

東京方面から国道20号線を富士見町に入り、20号線には珍しいヘアピンカーブという程ではないにしても
曲がりくねった道を上った右側に『瀬沢古戦場』の碑があります。
この碑がある場所が『血河原』と呼ばれ、
瀬沢合戦は血河原合戦とも言われました。

この合戦で、諏訪頼重はトヤヶ峰に、血河原に小笠原長時が陣をはりました。
晴信は、躑躅ヶ崎の館の堀を掘って篭城作戦をとるという噂を流し、敵陣を油断させ、一気に敵陣を攻めて、大勝しました。
連合軍は、休息してから甲府を攻めようと一息ついていたところを攻められて、
1621人も討ち取られたとのこと。
この合戦に負けた諏訪頼重は、入笠山付近を通って逃げて行ったそうです。
この後、信玄VS頼重の激突となり諏訪総領家は滅亡となります。
因みに、瀬沢合戦は、NHK大河ドラマ『武田信玄』では北杜市小淵沢町笹尾付近で戦かったとし、
『風林火山』では全く出てきませんでした。


ところで、富士宮の焼蕎麦店で焼蕎麦を食べていたときのこと。
『武田信玄』だったか『風林火山』だったかの漫画を見つけて読み始めました。
その漫画には瀬沢合戦のことが描かれていて、なかなか面白かったです。
小笠原長時・諏訪頼重・村上義清・木曽義昌の連合軍が進軍してきていると知った信玄は、
鎧兜を白く塗り、白い衣装を集めさせて兵隊に着させました。
そして、
火の中に石を入れて暖めるというか強く熱して、その石を布で包んで兵士のお腹に入れさせました。

こうすることによって、雪の中の行軍でも凍え死ぬことがないようにし、
雪の白さの中で目立たぬように行軍させて、勝利を導いたとのこと。
瀬沢合戦は新暦の2月だったので、それもありかなぁ、と思いました。    (05/ 8/ 6 訪問)

(現地案内板より)

国道20号線沿いに 瀬沢古戦場と書いてあります。

『尼ん堂』と『おんまわし』(落合瀬沢)

瀬沢合戦の直後、戦死者の身内であると思われる尼僧が現れて、
この地に住み着き、死者の亡霊を鎮めたという『尼ん堂伝説』があります。
国道20号線を諏訪方向に走っていると、瀬沢大橋の手前右側に5軒ほどの住宅があります。
これが、『尼ん堂』のあったところ。
今は住所としては残っていませんが、地元の人は、『尼ん堂』をよくご存知でした。

下の写真の画面左、白い車が見えますが、その先が瀬沢大橋です。
旧甲州街道は、瀬沢大橋付近で20号線とクロスして、左側瀬沢部落に入って行きます。
                                    (08/ 5/28 訪問)

写真の右側、住宅のあるところが『尼ん堂』

『おんまわし』は、『追い回す』→『追ん回す』→『おんまわし』かと思うのですが、
瀬沢合戦に関連の地名だと言われています。
国道20号線を諏訪方面に向かい、瀬沢大橋を渡って少し進み、
左に大きくカーブするカーブの先端で20号線と別れて、右側に進んだところが『おんまわし』です。
住宅もほとんどなく、のどかな田園風景となり、まさに『兵どもが夢のあと』です。

瀬沢古戦場方向(国道20号線方向)に進む『おんまわし』の道。
向かって左、田圃の向こうを立場川(境川)が流れています。
トヤヶ峰は、太い電柱の向こうの丘のそのまた向こうになります。

瀬沢合戦での戦死者を埋葬した『九つ塚』(落合瀬沢)

瀬沢合戦で味方を多く失った晴信は、
九つの穴を掘って

戦死者を埋葬し塚を作ったというーーー。
九つあった塚も洪水や伊勢湾台風で流され、
最後に残ったのが、この画像中左とのこと。


2003/10、たまたま通りかかって見つけました。
冷夏による米の不作を聞いていますが、
田んぼは黄色く色づき、
コスモスがとてもきれいでした。

               (03/10/ 3 訪問)


瀬沢合戦戦死者の供養がなされたという西照寺(落合瀬沢)

立場川を挟んで、瀬沢合戦場の対岸の小高い旧甲州街道沿いに、西照寺があります。
今は住職さんもおられず、小さな建物があるのみですが、
かつて、瀬沢合戦で討ち死にした武田方9人の遺族が供養塔を建てたという話を聞きました。
最初に西照寺を訪問したときは、この供養塔が見つかりませんでした。

地元の郷土史に詳しい方に伺ったところ、供養塔は西照寺の後ろの少し高くなったところにあるという・・・。
08/05/30 に再度訪問して、やっと供養塔を見つけることができました。   (07/ 5/12 訪問)

今は住職さんもおられない西照寺 西照寺の裏手にある供養塔(08/05/30 撮影)

瀬沢合戦で血に染まった武智川(落合瀬沢)

武智川(武血川)と立場川(堺川/境川)に挟まれた地域で瀬沢合戦がおこりました。
武智川も立場川も釜無川に合流しています。
武智川は、合戦により血で染まったことにより、武田の『武』と『血』を合わせて、
『武血川』と呼ばれるようになったそうですが、現在では『武智川』と表記されます。
現在では、そのような悲惨な合戦があったとは思えない、美しい水が流れています。

釜無川の下流、富士見町蔦木と甲斐市竜王町(釜無川と御勅使川の合流点)で、
信玄堤の工事がなされました。釜無川は、信玄の歴史に大きく関わった川だと言えます。
                                (08/ 6/ 1 訪問)

武智川 釜無川に流れ込む武智川

諏訪頼重が陣を張ったトヤヶ峰(落合瀬沢)
 
瀬沢古戦場の碑付近から見るトヤガ峰。国道20号線の向こう側という位置関係になります。
ここに諏訪頼重が陣を張ったという伝承があると聞きました。
写真は、瀬沢部落の住宅です。
戦死者の供養等がある西照寺は、瀬沢部落の中を通っている道(旧甲州街道)を左に下って
石段を登ったところにあります。            (08/ 5/28 撮影)




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