見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県富士見町(2)

西岳中腹にある信玄の隠れ岩(立沢)

八ヶ岳の一つ西岳には、たくさんの登山道がありますが、
その一つ、『第五配水池』経由の登山道の途中に、『信玄の隠れ岩』があります。
住所は立沢ですが、立沢部落からも棒道からも、かなり離れた場所にあり、
なぜ、『信玄の隠れ岩』と呼ばれているか、不明です。

『信玄の隠れ岩』の標識はありますが、岩そのものに案内板がありません。
でも、多分、これだろうと思われる大きな岩は、ありました。

信玄は、人気ナンバー1の武将ですから、後の人がなんでもかでも信玄に結びつけた
ということはあるのでしょうが、八ヶ岳の登山道地図に、『信玄の隠れ岩』と、ちゃんと出ています。
地元の歴史に詳しい方に聞いたところ、信玄が負け戦で逃げてきて一時的に隠れたか、雨宿りでもしたか、
どちらかだろうけれど、詳しくは分かっていないとのことです。     (09/ 8/28 訪問)

八ヶ岳連峰:: 画面左、一番手前にある雪のない山が西岳
西岳の麓を信玄の棒道が通っています。
←茅野方面      甲府方面→ (20/12/27 撮影)

隠れ岩の標識はこれだけ!

行く夏を惜しむ山野草!
多分、これが隠れ岩かと・・・・。

雨宿りができそうな、洞くつがあります。

堺川(境川)はこれなのか?(2)(立沢)

武田信虎が諏訪を攻略しようと攻め込んだ(1528年)のを、
諏訪頼満が受けて立った神戸・堺川合戦は、後、1535年、和議が結ばれて決着しました。
古文書に、和議は境川(堺川)で結ばれたとあるそうですが、
その境川(堺川)が現在のどの川なのか、よく分かってはいないそうです。

その候補の一つが現立場川で、鉢巻道路が立場川を渡るところの少し上流にあるキャンプ場に
その旨、富士見町教育委員会の案内板に記載されています。
実際に、立場川が境川(堺川)であったとする意見が有力だと地元の歴史に詳しい方から聞きました。
                                             (09/11/13 訪問)

「立場川は古くは境川と呼ばれた。」の案内板 案内板近くの立場川

信玄が創建した立岸山高栄寺(立沢)

高栄寺は、1559年に武田信玄により創建されたといわれています。
1559年と言えば、第3次川中島合戦と第4次川中島合戦の間で、出家して信玄を号した年です。
富士見町立沢は古くからの集落であり、上の棒道は立沢部落を通っていたとも言われています。
富士見町立沢付近は、平安時代後期『柏崎の牧』と呼ばれた馬の生産地で、部落があり、道もあったのですから、
高栄寺に面した道を、棒道の一部としたことも十分考えられます。
高栄寺は、信玄が信濃との往復の折、宿舎として建立したのではないかと、推測しています。(08/ 3/11 訪問)

本堂

四つ花菱の紋
観音堂と金比羅堂(どっちがどっちか分かりません。) 高栄寺六地蔵と石幢

立沢大山祗社(立沢)

立岸山高栄寺から、徒歩2分くらいのところにあります。

元からあった立沢部落の大山祇社に、信玄が信濃への往復の無事を願って
三島神社から分霊し、合祀したのだそうです。思ったより大きくて、立派でした。

2009年元旦、初詣に行ったところ、諏訪氏の紋の幕がかけてあり、
大山祇社は、諏訪氏縁のものだと知りました。
写真は、2009年元旦に撮影したものに差し替えました。  (08/ 3/13 訪問)


相撲の土俵があります。 境内にある小さなお社

信玄の伝説がある下の幕石(立沢字広原)

県道484号線(通称鉢巻道路)の東側にある分譲別荘地(ほ地区)の中に、
信玄が陣を張ったという場所があり、信玄が座ったという巨大岩があります。
信玄が陣を張ったという場所は、他の場所には見られないほど岩が沢山あり、
これは陣を作った跡だという話があります。
信玄が座ったという岩は、なるほど、そういう伝説の理解できるという説得力があります。

地元の歴史に詳しい人に聞いたところ、棒道付近には、幕石と呼ばれる石が二つあって、
これは、下の幕石。ここで信玄は、軍議を行ったんだそうです。
(因みに上の幕石は、鉢巻道路より八ヶ岳側、棒道の近くにあります。)  (09/ 6/22 訪問)

信玄が座ったという岩(二方向から写真を撮りました。)



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