見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県富士見町(5−2)
武田信虎による 神戸・堺川合戦関連
神戸合戦場跡(富士見)

神戸(ごうど)は、富士見町の中でも早くから開けた、歴史のあるところです。
神戸付近、国道20号線を諏訪に向かって左側に、神戸合戦跡があります。

この合戦は、武田信虎が諏訪を攻略しようと攻め込んだ(1528年)のを、諏訪頼満が受けて立ったものです。

昼間は武田郡が優勢だったのが、夜になって諏訪郡が巻き返し、決着はつきませんでした。
後、1535年、武田信虎と諏訪頼満は、境川(堺川)で和議を結びました。

古戦場は、大きなウワミズ桜の木が目印ですが、この桜の古木は後になって植えられてもので、
神戸合戦とは、何の関係もありません。
通りがかりに桜が咲いているのが見られるかと寄ってみたのですが、
桜の木は、日影になって、農業に差し障りがあるということで、上の写真のように切られていました。
この桜の木の周囲の土地は、神戸地区が所有していますが、
桜のところまで行くには、道がなくて、よそのお宅の庭や畑を通らせていただかなくてはなりません。

桜の木の下には、神戸合戦で亡くなった人を弔う五輪塔があるのですが、上の写真のように、崩れてしまっています。

                                (06/ 4/20  訪問)

(現地案内板より)

ウワミズ桜の付近が神戸合戦場跡 戦死者の供養塔

堺川(境川)はこれなのか?(1)(富士見)

国道20号線の富士見峠交差点を諏訪に向かって左折して、パノラマスキー場に向かって進みます。
日本服飾美術学校のところで二股になっているのを右に進むと、左側に堺川の石碑が立っています。


富士見町の古文書に、次のようにあるそうです。
武田信虎と諏訪頼満との間の合戦は、堺川で上諏訪社の宝鈴を鳴らして和議を結んだ。
信玄の娘を頼満の孫頼重と結婚させ、その化粧料として、国境線を堺川から甲六川に移す。」

堺川がどの川であったかは、現立場川説他、神戸を南を流れる川説、神戸の南を流れる川説など
諸説あって、特定できていないそうです。
立場川キャンプ場にある案内板には、立場川が堺川であると書いてありますが、
ここにも堺川の石碑があり、丁度神戸の南を流れる川ということになります。

現在、立場川が堺川であったという説が有力だそうですが、これと言って決め手はありません。
立場川が堺川であるとする根拠は、立場川が厳しく深い谷間を流れていて国境に相応しいとのことだそうです。

実際にこの堺川の石碑付近の川を見てきたのですが、国境というには余りささやかな流れです。
もちろん、年月が流れを変えたことも考えられますが・・・・・・。
しかし、武田側にすれば、娘を人質に出して、その上かなり広大な土地をプレゼントするなど
あっただろうか?という気がします。

国境線を堺川から甲六川に移すことによって、「18ヶ村を諏訪領にした。」とあることから、
堺川から甲六川の間に18ヶ村もあったのだろうか?と疑問もあるのですが、
その古文書がいつ書かれたものか?とも考えます。
18ヶ村というのに、どれだけの信憑性があるか?などと考えると、分からなくなります。(09/10/12 訪問)

堺川を示す石碑 堺川の流れ

信虎が使った先達城址(先達)

享禄元年(1528年)、神戸・堺川の合戦(信虎vs諏訪頼満)時、信虎はここ先達にあった新五郎屋敷を城とし、
ここを合戦の本拠地にしました。

信玄の時代になると、家臣の多田淡路守常昌(長篠の合戦で戦死)の居宅となり、
常昌の死後、ここに菩提を弔う常昌寺が建てられたという伝承があるそうです。
現在常昌寺は、公民館としても使われています。


神戸・堺川の合戦は、朝の神戸での合戦は武田の勝利、夕方の堺川の合戦は諏訪の勝利でした。
                                   (07/ 1/ 6  訪問)

(現地案内板より)

先達城址にある常昌寺 旧跡先達城址の碑



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