山県昌景の鎧・兜が現存(八王子市料亭天山内名和美術館)(暁町2−28−17 ) |
徳川家康を三方が原の戦いで、恐怖に陥れた山県昌景の赤備えの鎧・兜が、
料亭天山にあると聞いて07/ 5/24見に行きました。
この料亭は、中央道八王子インター近くの小高い丘にあります。
なぜ、天山に山県昌景の鎧があるかと言いますと、天山の経営者は、名和さんといってたいへんな旧家の方で
多くのコレクションを天山のフロント脇に『名和美術館』としてお客様に無料公開しているということです。
飯富の赤備えは、信玄の長男義信の謀反事件の後、飯富虎昌の弟山県昌景に引き継がれ、
武田氏滅亡後は、徳川家康の懐刀と言われた井伊直正に引き継がれました。
展示の中に、井伊赤備えの足軽の鎧もあったので、
この昌景の鎧・兜は多分井伊家に保存されていたんだろうと思いました。
大感動で見た昌景の鎧は、赤い色はかなりくすんでいました。年月が経っているので当然のことですがーー。
繕いがなされたのか、それとも実戦には使われなかったものなのか、矢の痕も刀の痕も見当たりませんでした。
この鎧を見るためには、天山で食事しなければなりません。
ランチの安い方、松花堂弁当は3000円(税・サービス料込みで3500円)はかなり痛いかな?
という感じですが、山県昌景の鎧・兜が見たい一心で財布の紐が緩みました。 (07/ 5/22 訪問) |
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信玄の息女のお墓がある信松院(台町3丁目) |
武田信玄の息女松姫は、七歳のとき織田信長の長男信忠と婚約しました。
婚約と同時に文通を始めた二人は、文通を通して本当の恋が芽生えたのだそうです。 しかし、武田家と織田家が不仲となり、婚約は解消となりました。
(婚約したのが松姫7歳、婚約破棄が12歳だそうですから、熱愛に関しては真偽のほどは分かりません。)
高遠城を守る同母兄仁科盛信が、かつての婚約者織田信田忠と戦って死に、
異母兄武田勝頼も死に、武田家は滅亡しました。
松姫は同母兄仁科盛信の娘督姫と異母兄武田勝頼の娘貞姫、更には人質だった小山田信茂の娘香具姫を同道し、
八王子に逃れ、この地で暮らすこととなりました。この3人の姫は、いずれも4歳だったと言われています。
後に、旧武田家の家臣であった大久保長安等の庇護をうけたのだろうと思います。
八王子で生活を始めたある日、信忠から「正室はあるけれど、ぜひ、自分のところに来てほしい。」という手紙を受け取り、
松姫は信忠のもとへと向かいましたが、その途中で本能寺の変と信忠の死を知るという更なる悲劇が待っていました。
(こういう説もあるとかですが、これも真偽のほどは分かりません。)
松姫は、八王子でで子供たちに手習いを、人々に織物を教えました。
八王子は織物の町として栄えたのですが、これは松姫の尽力が伝統として残ったからなのだそうです。
現八王子市台町3-18-28にある信松院には、松姫のお墓があります。
写真には写っていませんが、門扉に武田菱があります。
大久保長安陣屋跡から歩いて5分ほどの距離です。信松院の横を通る道は『松姫通り』と名づけられています。
信松院の境内には、『松姫お手植えの松』という明治38年に作られた碑があります。
当時でもかなりの老木だったとのこと。今はもうありません。 (05/ 6/22 訪問) |
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信松院正門
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松姫のお墓 |
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正門の右側にある松姫の旅姿 |
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こんなお顔です。 |
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元武田家家臣大久保長安陣屋跡(小門町) |
大久保長安は、武田信玄、勝頼、徳川家康に仕えました。信玄は長安を武将とてではなく、
鉱山開発や税務などの任務に当たらせました。
諸説あるようですが、信玄没後勝頼に仕えましたが、勝頼とウマが合わず武田家から姿を消しました。
武田家滅亡後は、徳川氏に仕えたのですが、大蔵氏→土屋氏→大久保氏と姓を改め、
大久保を名乗ったのは、徳川家康の家臣となってからです。
武田家滅亡後、甲斐は徳川家康の領土となりましたが、甲斐の復興は、大久保長安の功績によると言われています。
八王子千人同心を設置して、路頭に迷った旧武田家家臣を同心に採用するよう家康に進言したり、
淺川の氾濫を防ぐための工事をしたり、目覚しい活躍があったようです。
信玄息女松姫が住んだ信松院は、長安陣屋跡から近く、長安は松姫の庇護にもつとめたのではないでしょうか。
長安死後、長安が不正に蓄財をしていたとの疑いをかけられ、一族郎党惨殺された所謂大久保長安事件が発生します。
真偽のほどは不明だとされていますが、長安の陣屋跡は産千代稲荷神社となっています。
因みに、長安はポルトガル人、中国人、秦氏の末裔と、色々言われています。 (05/ 6/22 訪問) |
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産千代稲荷神社 |
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産千代稲荷神社の入口にある
大久保岩見守陣屋跡の碑 |
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大久保長安の治水工事、石見土手(千人町) |
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宗格院の墓地には、千人同心だった人が 多く埋葬されているそうです。
大久保長安は、信玄の治水工事に影響を受け、 浅川の治水工事に力を注ぎました。
石見土手は、浅川の本流と ここ千人町を流れる支流に作られました。 本流に作られてものはもう全然残っていませんが、 ここ宗格院に60m程残っています。
大久保長安は、石見守と名乗っていたので
その名から、石見土手と呼ばれています。
(05/ 6/22 訪問)
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宗格院正門
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最初は、花壇のための石盛かと思ったのですが、これが石見土手。 かつては、ここを浅川の支流が流れていたのですね。 |
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旧武田家家臣の失業対策・八王子千人同心(追分町) |
徳川家康は、もし、秀吉に攻められたら、半蔵門を守っている服部半蔵配下に守られて
真っ直ぐ八王子まで逃げ、続いて八王子千人同心に守られて、
甲府城に逃げる予定だったという説があります。
そのため大久保長安の言を入れて、八王子同心を、
最初武田家の国境警備隊(小人組)約250人で組織しました。
その後、現地採用などにより人員の補給がされ、八王子千人同心と呼ばれるようになりました。
(05/ 6/22 訪問)
小金井市桜町にある『江戸東京たてもの園』に八王子千人同心の家が保存されています。
下に4枚写真をアップします。 (05/ 6/22 訪問) |
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八王子千人同心屋敷跡の碑
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千人同心拝領の馬場があった千人町 |
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