見て歩く日本の城と史跡ー東京都八王子市(2-2)

北条氏照が築城した八王子城跡(元八王子)

永禄12年(1558)、武田信玄による小田原攻めのおり、滝山城が包囲され、苦戦した北条氏照は、
高尾山近くに更に堅固な城を築城したのですが、それが八王子城で、
山頂に牛頭天王の8人の王子の『八王子権現』が祀られていることから、八王子城と名付けられました。
それ以降、武田軍から攻められることはなかったのですが、後に豊臣秀吉に小田原城が攻められたとき、
城主氏照が小田原城に出向き、家臣が守る八王子城は、一日で落城しました。
後に八王子は町の名前にもなったのですが、八王子の町で賑わった場所は、
八王子城からはずっと離れた、後に甲州街道沿いとなる地域です。

北条氏照は、小田原城が落ちたとき、兄氏政とともに、切腹を命じられました。

八王子城は、麓の居館地区と頂上の要害地区とを分けられた広大な城でした。
この広大は城は、江戸時代を通して打ち捨てられた形となり、非常に保存状態がよく残っています。
                                   (2007/ 7/ 4、小雨降る中訪問)

八王子城を学ぼう!
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(現地案内板より 以下も同じです。)

居館地区

向こうに見えるのは御主殿への古道
橋の下は、切り堀


この当たりに大手門があったようです。


 
    御主殿への古道

復元した曳橋

曳橋と積み直した石垣

御主殿の虎口の『コ』の字型に曲がった階段

4個ある櫓門跡のうちの一つ

御主殿跡


復元された櫓門 御主殿跡(向こうに門が見えます。)
もっと奥だとも考えられています。


要害地区


頂上への登り道(新道)

金子丸跡(金子家重が守っていた曲輪)
画面向かって左奥が旧道、右が新道

旧道と新道が合流した後の登り道
左: 松木曲輪(ニの丸、中の丸とも呼ばれました。)
右: 八王子神社八王子神社の裏を登っていくと、本丸があります。)


本丸跡
標高480mにある本丸は、あまり広くありません。
大きな建物はなかっただろうと推測されています。
落城のとき、横地監物が守っていたと言われています。


氏照百回忌に建立された供養塔(両脇は、中山勘解由、中山信治)
八王子城の手前で右側に入ったところにあります。
廿里(とどり)の古戦場(廿里町)

(現地案内板より)

JR高尾駅を降りて、JR線と直角方向の道を
多摩森林科学園方向に進んだところに
廿里(とどり)の古戦場の案内板があります。

1569年
、武田信玄は小田原城の北条氏康を攻めるため
碓氷峠を越えて北関東に攻め込みました。


氏康の3男氏照は滝山城にいて、氏照の家臣だった
布施出羽守、横地吉信、中山家範らが
が廿里砦を守っていました。
このとき、岩殿城の小山田信茂が小仏峠を越えて
廿里砦攻め込んだとのことです。
当時、たいへんな難所とされていた小仏峠を越えて
攻め込んだ小山田信茂は、おおいに名を上げました。
廿里での合戦は、武田方の大勝でした。
多摩森林科学園方面に向かうこの辺り

武田軍の小田原遠征の後、滝山城の弱点を感じた北条は、八王子城建設の計画を立てたそうです。
それはそれとして、小山田信茂は北条からも所領をもらっていたという説はどうなるのかな?という疑問が残りました。



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