見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県原村

快川和尚の弟子が開山した御射山深叢寺(中新田13512 )

武田家滅亡後、諏訪頼重の従兄弟諏訪頼忠が諏訪の領主として復帰し、頼忠の息子頼水が高島藩初代となりました。
慶長15年(1610)、頼水は原村の現中新田付近を開墾することを認め、多くの人が入植しました。
元和4年(1618)入植した人全てが開基となって作った寺が御射山 深叢 (しんそうじ)です。
御射山 深叢寺 (しんそうじ)は、開基時は『福寿山 新相寺』と号しました。

『新相寺』の開山となったのは賢道智弘和尚は、武田信玄ゆかりの寺『恵林寺』の住持、快川紹喜(大通智勝国師)の
弟子だったそうです。2代藩主諏訪忠恒がこの寺に立ち寄ったとき、寺が御射山社の地ににあることと、四方草むらで
あることから『御射山 深叢寺』と改称し、諏訪藩の紋章を寺紋とすることを許しました。以来深叢寺は諏訪忠恒を中興
開基とし、現在に至っています。                          (13/ 2/22 訪問)

かなり古そうな山門 山門にある『御射山』

梶の葉の諏訪家の家紋
山門よりはかなり新しく見える本堂

狼煙台ネットワーク・雀ヶ森(原村中央高原保健休養地)

雀ヶ森は、原村の第二ペンション村の北側にあります。
雀ヶ森は広範囲のわたるのでしょうが、棒道の近くと思えるところにちょっとした小高い山があって、
その頂上は、土塁とも思えるものがあります。
ここは、『朝倉山』→『関守伝十の墓近くの城山』→『雀ヶ森』→『鼻戸屋』と続く、狼煙の中継地
だったそうです。                         (09/ 6/ 7 訪問)
またテレビでみた話しですが、北条時行が鎌倉から逃げ出したとき、最初に身を潜めたのが、ここ
雀が森だったそうです。続いて→伊那市高遠町藤沢北原隠窪→伊那市富県福地へと逃げ延びたそうです。

雀ヶ森の少し高くなったところ
真ん中に石碑が見えます。

頂上にある石碑(上原山○○記念)
頂上は平らで、土塁とも思えるものがあります。 雀ヶ森を左に行ったところにある弓振川

原大隈守の所領地となった原村

諏訪郡原村の『原村』という名前の由来につき、諸説あるうちの1説を聞いたのは最近のことです。
第4次川中島の戦いで、謙信と信玄が一騎打ちをしているところに駆け付けて、
謙信の馬を槍で刺し、謙信を救ったと言われている原大隈守胤歳が、その功績により所領地として
給されたところの一つがこの土地で、だから『原村』と呼ばれるようになったという説もあるとのことです。

武田家滅亡後、原大隈守は徳川の家臣八王子千人同心となり、現在の神奈川県相模原市に移って
いったという説があります。                     (08/ 3/13 訪問)

村の中心払沢交差点 伝統的な民家
(屋根の飾りは伊那地方でよく見かけます。)

田園風景が広がります。



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