見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県北杜市長坂町(1−3)

武田信玄旗掛松の碑(長坂町富岡)

武田信玄旗掛松の碑は、JR日野春を出るとすぐ左手にあります。
樹木の形をしていると思われる石碑ですが、説明部分が読みにくいので
ネット上のいくつかの解説を引用させていただきました。

歴史的に意味のある裁判例だったのですね。 (19/05/22 訪問)

信玄公旗掛訴訟事件
1914年(大正3年)12月に一本の老松が蒸気機関車の影響で枯れたことから、
所有者の清水倫茂 が1917年(大正6年)に国を相手取り起こした損害賠償請求事件です。
「武田信玄が旗をかけたと言い伝えられる由緒ある松樹のすぐよこを鉄道が通るように
なったため、松樹が煤煙などで枯れてしまった」という事案で、鉄道会社に対して、「鉄道
の運行が権利の濫用(土地所有権の濫用とされてます)にあたり、損害賠償責任を負うべ
き」としたものです。

信玄公旗掛碑の全体 信玄公旗掛碑
の文字部分
所有者 甲府
清水倫茂建立
石工 当村
古屋政義
石碑の説明

真田隠岐守信尹(おきのかみのぶただ)のお墓がある龍岸寺(長坂町長坂上条1660)

真田隠岐守信尹は、真田幸隆の四男で、長男は真田信綱、次男が真田昌輝、三男が真田昌幸です。
案内板には龍岸寺の住所は長坂上条1660となっていましたが、
長坂上条1666とカーナビに入れたところ、龍岸寺の駐車場に案内してくれました。


幸隆の四男というのは、あまり耳にしたことがなかったのですが、昌幸とともに幼いころから武田信玄に仕えていたとのこと。
武田家の一族の加津家を継ぎ、加津隠岐守を称しましたが、後、真田姓に復しました。
天正10(1582)年の武田勝頼死亡後は、徳川家康に仕え、慶長19(1614)年甲斐巨摩郡の内に、知行地を与えられ御使番となりました。
当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住しており、現在その屋敷跡が残っているそうですので、ぜひ、訪ねてみたいものです。

隠岐守信尹は、慶長年間に龍岸寺の中興開祖となり、その菩提寺としました。
お寺には、武田の割菱を両側から守るような真田の六文銭があちこちに見られます。

墓地には隠岐守信尹のお墓があるのですが、お会いしたご住職によると壊れてしまっているとのこと。
墓地にあった丁度半分に折れてしまった石塔がそれかと思いました。                    (09/ 3/ 9 訪問)

 真田信伊(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の四男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。
昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津野家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守
と称している。後、真田姓に復する。天正10年(1582年)の武田家滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。
同年9月昌幸が家康に属したのは、信尹の斡旋による。この後も、昌幸と徳川の仲介役をつとめている。
一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪両陣に供奉し、その功績
により千石加増され合計四千石となる。慶長19年(1614年)甲斐国巨摩郡の内に、采地をあたえられ御
使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時、本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基と
なった。この故に真田家家紋の六連銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在そ
の屋敷跡を残している。寛永9年(1632年)5月、86歳没。知行地でもあった龍岸寺に葬られた。
この墓には、信尹夫妻以下3代が葬られている。
(現地案内板より)

真田信伊屋敷跡は、少林寺の近くです。

茅葺の山門

本堂
本堂(側面から)

折れてしまった信尹のお墓
武田の割菱 真田の六文銭

長坂長閑斎屋敷跡(長坂町長坂上条1032 )

長坂長閑斎は、武田信玄、勝頼の2代にわたって武田家に仕えた家臣ですが、何かと悪評が聞こえてきます。
上杉景勝が、御館の乱のとき勝頼に贈った莫大な金のうち、かなりをクスネタとか、
織田・徳川の連合軍から逃げる勝頼を見捨てて逃げたとか、
です。
しかし、その反面、最後まで勝頼に従い、殉死したという説もあります。

その屋敷跡が長坂上条にあるというので見に行きました。
龍岸寺を出た後、カーナビで長閑山を探したのですが、見つかりません。
龍岸寺のご住職が長閑山の方向を指差して、「地元の人なら誰でも知っているよ。」とおっしゃいました。


それで、畑仕事をしていた方に聞いたところ、「向こうに見える低い山が長閑山で、
右側にある3本の松と左側の松がたくさんあるところの間ぐらいが、長坂長閑斎屋敷跡だ。」と教えて下さいました。

山と言っても、ほんの少し高くなっているだけ。しかし、武家屋敷としては、良い立地に見えました。
屋敷があったらしいという付近には、
切り倒した松がごろごろ転がしてあって、
史跡も何も見つかりかりませんでした。

ただ、土塁・空堀らしきものがあった
ので、まぁ良しとしました。


屋敷跡の周りを堀が囲んでいました。
現在は水があったのですが、
当時掘られた
空堀ではないかと思いました。

なお、長坂長閑斎と一緒に名の挙がる
跡部大炊助の屋敷跡は、
南アルプス市甲西町了泉寺だそうです。
            (09/ 3/ 9 訪問)
遠くに長閑山を望む。

ぐるっと取り巻く堀

かつて虎口があった付近か?

教えてもらった屋敷跡付近

土塁と空堀の跡か?
西に甲斐駒ケ岳 北に八ヶ岳



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