『教来石』という名の石(白州町下教来石) |
NHK大河ドラマで活躍中の教来石影政の一族は、
美濃国土岐郡に土着した土岐光衝の一族で、甲斐国教来石村に移り教来石氏を名乗りました。
後に馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名、さらに改名して信春となります。
この教来石村の名前の起こりですが、『教来石』という石が実際に存在するというので、07/ 7/22
見にいってきました。国道20号線の下教来石の信号を少し諏訪方面に進んだところを左折し、
道なりに右にカーブしながら緩やかな坂を上っていくと、お墓があります。
このお墓がきれたあたりの畑の中に、大和武尊が座ったという大きな石があります。
石の上には、五体の石仏があるのですが、この石の上に上るのは、ちょっとたいへんな感じがしました。
畑の柵に背中をつけて、精一杯大きく撮ったのが下の写真です。
歩きやすいように草が刈ってあるので、大切にされているのだなと思いました。
ところで、この『教来石』ですが、元々は『経来石』と表記し『へてこいし』と読んだそうです。
『経来石』を『きょうらいし』と読み、『経』が『教』と誤記されて、『教来石』となったとか。
『へてこいし影政』では、あんまり強そうには聞こえませんね。 (07/ 7/20 訪問) |
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馬場美濃守信房も営繕料を寄進した石尊神社(白州町鳥原3107) |
石尊神社は、馬場美濃守が教来石氏を名乗っていたころの住居の近く、
白州町鳥原、国道20号線からサントリーの工場を過ぎて1.7kmくらいのところにあります。
神社の看板には、次のように書いてあります。
祭神 大山祇神、日本武尊
創建 応永5年(1398)
由緒 再建文禄3年(1594)甲斐守武田信虎の崇敬が厚く家臣馬場美濃守信房も営繕料若干を寄進され、
寛文12年徳川家より田1反17歩を寄進せられた。 |
『営繕料若干を寄進され』の若干が気になることはなりますが、
住まいの近くの神社に美濃守が寄進していたことはよく理解できます。
石尊神社への本宮までには、全部で347段の階段と階段の間の坂があるので、けっこうきついです。
最後の登り202段は、手すりをしっかり持つよう、看板がありました。 (13/ 6/23 訪問) |
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202段の階段を下から見上げて!
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上から見下ろして!
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教来石影政(後の馬場美濃守)屋敷跡(白州町鳥原) |
馬場美濃守が教来石氏であった頃の住居は、白州町鳥原、国道20号線サントリー白州工場の近くにあります。
役場では、馬場美濃守の『生家』だと教えていただきました。
行ってみると、鳥原平活性化施設の向かいに東屋と案内板があるのですが、とにかく草に覆われていて、
誰も訪れる人がいない、という感じでした。
教来石民部屋敷跡の碑は草に覆われていたので、写真撮影のためには、草を取り払う必要がありました。
下の右の写真、向こうに見えているのが『鳥原平活性化施設』です。
因みに、教来石影政は、馬場姓を継承してから、更に南よりの地域、現在の白州道の駅付近に住居を変えました。
(07/10/19 訪問) |
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向こうに東屋と案内板が見えます。 |
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向こうの建物が『鳥原平活性化施設』 |
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教来石影政の名前の変遷 |
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教来氏景政→馬場信房→馬場信春 |
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通称:初め『民部少輔』、原美濃守死亡後は『美濃守』 |
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馬場家の家紋が花菱であるところを見ると、馬場家は何代か前に武田家から分家したものを思われます。 |
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