見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県北杜市高根町

熱那神社(高根町村山西割)

康正6年2月、新羅三郎義光が八幡大神を合祀したと言われる熱那神社は、
高根町村山西割の棒道に面したところにあります。
武田家は熱那神社を深く尊崇して、出陣の際には必ず参拝しました。
また、武田信玄は、武運を祈って神領を寄進しました。

天正10年、武田家が滅亡すると一時社運が傾いたのですが、徳川氏から神領安堵の朱印状を貰いました。
黒源太清光以来、武田家が修繕してきたのですが、その年代等については不詳です。
明治維新のとき、神社が持っていた不動産などは、上げ地されてそうです。

北杜市を歩いていると、信玄が戦勝祈願した神社がいくつもあります。
信玄自身が信心深かったのか、家臣の士気を高めるためだったのか、といつも思います。
                                         (07/ 8/20 訪問)

棒道に面したところに堀の跡が

神社は鳥居の右手にあります。
山門の向こうに本殿 本殿

美しい渡り廊下 神楽殿

山本勘助墓所がある山本家(高根町蔵原)

山本勘助は、静岡県の生まれだけれど、武田信玄に仕えるようになって、
現山梨県北杜市高根町に知行地をもらいました。
勘助は、結婚していて4人の子供があったそうです。
勘助が第4次川中島合戦で討ち死にしたあとも、家族はこの地に住み続けて、現在に至っています。

山本さん宅は、もちろん現代の建物になっていますが、なかなか立派な建物です。
山本さん宅には、勘助の位牌や武田24将の掛け軸があるということで、
位牌は特別に縁側に出していただいて拝見することができます。

宅地内にある勘助のお墓も公開して下さっていて、こちらは写真撮影OKです。
永禄2年(1559)に晴信が出家して信玄となったとき、勘助も出家して『道鬼』と称しました。
出家した勘助のお墓は、丸い形をしています。
敷地内には、歴代(江戸時代)の山本家の家族のお墓があります。
それを見ると、勘助亡きあともかなり裕福な家のように思えます。

因みに勘助の嫡男である信供は、長篠の合戦で討ち死にした、とどこかで読みました。
山本勘助の知行地は、韮崎市円野町だという説もあります。    (07/ 8/20 訪問)

現山本家の住居

三つ巴の紋が入った蔵
屋敷内にある勘助のお墓

鎧堂観音(高根町蔵原)

『後三年の役』で苦戦している兄八幡太郎義家を助けた、武田家の始祖新羅三郎義光が建てて、
自らの甲冑を奉納したと伝えられるのが、この鎧堂観音です。
本尊は、弘法大師作といわれる十一面観世音菩薩です。
信玄というと、あちこちで戦勝祈願をしているのですが、この鎧堂も祈願所の一つです。

彫刻が美しいなかなかの建物なのですが、いつ立てられたのかは分かりませんでした。
山本勘助の末裔の方が住んでおられる場所から、車で5分とかかりません。

この近辺で、武田の騎馬軍団を支える馬の飼育がなされていたそうです。 (07/ 8/20 訪問)

(現地案内板より)

立派な建物の鎧堂

彫刻が美しい。

武田菱があちこちに
山門に立派な仁王様がーーー。



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