見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県北杜市須玉町(5−1)

新羅三郎義光の菩提所・陽谷山正覚寺(若神子)

正覚寺は、新羅三郎義光の子逸見義清が、父義光の菩提を弔うために建立したもの。
創建当時は天台宗で、高根町村山北割朝日山にあったのですが、
永享2年(1430年)源氏の館跡であったこの地に移転し、宗派を曹洞宗としました。
                             (07/10/19 訪問)

本堂

甲斐源氏始祖新羅三郎義光項御菩提所
作者不明の和歌ー心に沁みます。

天保年間建立の山門 この門を背にして進むと味噌なめ地蔵があります。

味噌なめ地蔵尊(若神子)

味噌なめ地蔵尊は、正覚寺の正門から200m(ちょっとはっきりしません)くらいのところにあります。
かつては、味噌なめ地蔵尊のあったところが正覚寺の門で、敷地がかなり広かったことが伺えます。

この味噌なめ地蔵は、武田晴信が天文5年(1536年)16歳の初陣で、海ノ口城の平賀源心を攻めたとき、
谷間に光輝いていたのを見つけ、縄をかけて引いてきたところ、正覚寺の門前で動かなくなったので
ここに安置したとこことです。背中には、引いてきたときの縄の痕が二筋、残っています。

『敵に塩を送る』の故事によるように、甲斐の国では塩が貴重でした。
身体のどこかに痛いところがあるとき、塩で作った味噌をこのお地蔵さまに塗ると平癒するという言
い伝えがあるそうです。膝がいたければ膝に、頭が痛ければ頭に、というようにーーーー。

かつては、放光菩薩とも呼ばれた味噌なめ地蔵ですが、今は塗られた味噌で少々バッチク見えます。
 
                                         (07/10/19 訪問)

味噌なめ地蔵尊 背中に2本の縄の痕

若神子城(若神子)

武田家の始祖新羅三郎義光による築城だという伝説があります。
もし、そうだとすれば武田家発祥の地と言えます。

戦国時代は、武田信玄による信濃攻略の拠点として、佐久口・諏訪口方面からの狼煙集合・中継点
として重要視されていました。
天正10年に武田家が滅亡し、本能寺の変で織田信長が横死すると天正壬午の乱が勃発しました。
これは、新府城に陣取った徳川勢と若神子城に陣取った北条氏直によるものです。
しかし、武田の遺領に関して和睦が成立し、実際にぶつかり合うことはありませんでした。
結果、甲斐は徳川領となり、徳川は若神子城も廃城にしたと思われます。
今、若神子城は須玉町ふるさと公園として、町民の憩いの広場となっています。

若神子城は南北に細長いのですが、下の写真は北側から南側の順にアップしてあります。
                                    (07/10/ 7 訪問)

(現地案内板より)

北の虎口と溝状遺構

搦め手の備え左にPがあります。)
この広場の奥左手に薬研堀の遺構があります。
(白い小さな看板が見えるところ)(
北向きに撮影

北条氏直が天正壬午の乱の際に構築した薬研堀
しかし、完成はしなかったようです。
復元された『つるべ式狼煙台』です。
残念ながら登れませんでした。

狼煙台付近からの須玉町の眺望
日野春駅からタクシーに乗ったのですが、運転手さんが狼煙には『狐の糞』を使ったと教えて下さいました。
狼煙台の装置を角度を変えて、アップしてみました。主に夜間に使ったのだそうです。

主郭と思えるところにあるのは
土塁なのだろうと、勝手に推測しました。

この先を南下すると『宿借石』があります。
主郭の南下にある『宿借石』
ここに虎口があったという。

『宿借石』の近くにある石垣
古いものなのか気になりました。
お城の南の先端まで、尾根伝いに下っていきます。
下まで、宿借石から5分とかからずに降りられます。

左は、南の先端下から
若神子城を撮影したもの。

ふるさと公園の上り口は右の方にあるのですが、
ここには、駐車場はありません。

平賀源心(玄心)の墓(若神子)

北杜市須玉総合支所から徒歩で10分ほどのところに、平賀源心の墓があります。
武田晴信の初陣は16歳、天文5年(1536)で、相手は信濃海ノ口城主平賀源心でした。
平賀源心の存在については、不明な部分もあるようですが、海ノ口に源心の胴塚が
あることを思えば、晴信が源心の首を持ち帰り、ここに墓を作ったと考えるべきでしょう。

当時、若神子には陣所が置けれていて、この付近で陣立てが行われたとのこと。
江戸時代は、宿場として栄え、上木戸があったそうです。(07/10/19 訪問)

平賀源心の墓

墓の向かって右にある石碑
平賀入道玄心墓の文字 お墓の前の道
江戸時代、この付近に上木戸がありました。



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