見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県北杜市須玉町(5−2)

真田隠岐守信尹(おきのかみのぶただ)の屋敷跡(大蔵)

真田信伊は、真田昌幸の同じ歳の弟だとどこかで読みました。
徳川の家臣となって現北杜市に住んだときの屋敷跡は特定されていますが、何分にも個人のお宅なので、
ご迷惑がかからないよう住所は非公開で、かつ案内板などもないと聞きました。
それでも、真田信伊の屋敷があったところを見たくて、このあたりかな?と思うところの近くまで行ってみました。
                                                (19/ 8/19 訪問)

 真田信伊(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の四男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。
昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津野家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守
と称している。後、真田姓に復する。天正10年(1582年)の武田家滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。
同年9月昌幸が家康に属したのは、信尹の斡旋による。この後も、昌幸と徳川の仲介役をつとめている。
一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪両陣に供奉し、その功績
により千石加増され合計四千石となる。慶長19年(1614年)甲斐国巨摩郡の内に、采地をあたえられ御
使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時、本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基と
なった。この故に真田家家紋の六連銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在そ
の屋敷跡を残している。寛永9年(1632年)5月、86歳没。知行地でもあった龍岸寺に葬られた。
この墓には、信尹夫妻以下3代が葬られている。
(龍岩寺の案内板より)

真田信伊屋敷跡は、少林寺の近くにあり、龍岩寺は信伊の菩提寺です。



獅子吼城(江草)

須玉町江草にある獅子吼城は、江草城とも言われていました。
昔、江草城が落城したとき、城に住んでいた怪物が、ライオンのような叫び声をあげて獅子岩に飛び込み、
岩になったという伝説から、獅子吼城と呼ばれるようになりました。武田信玄の時代には、狼煙台として使われた伝承があります。

武田家滅亡後の天正壬午の乱(1582年)のとき、獅子吼城に篭った北条氏直軍を、
徳川軍・服部半蔵配下と武田家の生き残りが襲って落城させて、それ以降の情勢に大きく影響しました。

実際に行ってみると、訪れる人も少ないのか、かなり荒れているという感じでした。
アプローチを進んでいくと、右に行った方がいいのか、左に行った方がいいのか、散々迷って左に行くと、岩だらけの崖になって、
仕方なくその崖をよじ登りました。頂上の主廓には、石の小さな社と、復元した煙筒型狼煙台がありました。
この狼煙台は上昇気流を利用したもので、かつては石と土でできていました。
乾いた藁を燃やし、薪を入れ、そのあとに湿った生木を入れて煙(水蒸気)を出したのだそうです。

下りの道(登り道でもあります)は、簡単に見つかって、苦労せずに下山できました。    (07/10/19 訪問)

(現地案内板より)

アプローチ

間違えて、この岩(左側の道)を登りました。
主廓

主廓にある復元した煙筒型狼煙台
下りは、立派な道を辿りました。

この道(向かって右)を登れば、よかった!
石垣風のものが見えました。 東側の道から望む獅子吼城

武田の割菱がある根古屋神社(江草5336)

須玉町江草5336に欅の巨木があるというので、獅子吼城に行くついでに寄ってみました。
1000年以上経っているかと思える一対の欅の巨木も素晴らしかったのですが、
この根古屋神社には菊の紋と武田の割菱があり、獅子吼城の城主の居館があった場所だと思われます。
説明がありませんでしたが、この神社のご神体は、日本の欅なのでは?という感じでした。
2本のうち田樹が先に芽吹くと田が豊作で、畑樹が先に芽吹くと畑が豊作だという言い伝えがあります。
                                        (07/10/19 訪問)

田樹

畑樹
屋根には、菊の紋と武田の割菱がーーー。
神社前の道(小尾街道、あるいは穂坂街道)
佐久や群馬に繋がる旧街道



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