見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県北杜市(6−1)武川町

蔦木越前守の墓のある大津山実相寺(武川町山高2763 )

実相寺は、樹齢1800年とも2000年とも言われる神代桜が有名で、満開のころは人手で賑わいます。
08/ 4/ 5 は、土曜日で満開情報も出て、たいへんな賑わいでした。
私は神代桜も、武川衆の史跡も関心があって、寒くもなく暑くもない一日を楽しみました。

実相寺のある場所は、最初一条忠頼(武田信義嫡男)の城があって、続いていつの時代か武川衆山高氏の館があったとか。
その名残の土塁があるとか聞いたので、実相寺の裏手を歩いて見たのですが、はっきり土塁と言えるかどうか、という感じでした。

続いて登場するのが、蔦木氏。
蔦木氏は元々は知見寺氏と称していましたが、越前守盛之のとき、蔦木氏を名乗るようになりました。
『蔦木』という場所は、現在の長野県富士見町の南端、つまり甲斐と信濃の境界付近にあります。
現富士見町内では国境の移動があったようで、知見寺氏が蔦木氏を名乗ったのは、
その国境争いに関係があったような気がしています。因みに、実相寺と蔦木は直線距離で12KMくらいあります。

永禄4年(1561年)、第4次川中島の合戦にあたって、武田信玄は蔦木越前守に命じ
武運長久の永代祈願所として他の地にあった実相寺をこの地に移転させました。

武田氏関連の寺院仏閣では、屋根などに武田の家紋があるところが多いのですが、実相寺は、日蓮宗橘の紋がありました。
蔦木氏は、武田家滅亡後、徳川家康の家臣となったので、あえて武田菱を外しているのか?
と思ったりもしますが、どうも考え過ぎのようです。
               (08/ 4/ 5 訪問)

総 門

本 堂
本堂の屋根にある日蓮宗橘の紋
甲斐駒が美しい!

蔦木氏の石廟群(左側にもっとあります。)

一条氏、山高氏時代の土塁の名残か?
樹齢1800年とも2000年とも言われる神代桜

山高氏の史跡(武川町山高)

山高氏の系図
  甲斐源氏一条忠頼→一条(武田)信長→○○→一条時信→○○→山高信方(文保年中、山高に住み着く。)


高龍寺は山高氏の菩提寺で、幸燈宮は山高氏の氏神様でした。
天分元年(1532年)山高信之は、高龍寺を開基し、山高氏の菩提寺としました。

幸燈宮は、かつては大武川沿いの唐土というところにあったのですが、
何度も洪水にあって流失したので、文化2年(1805年)山高領主によって、現在の地に造営されました。
ご祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)と新羅三郎義光を相殿に祀っています。  (08/ 3/ 2 訪問)

高龍寺山門(本堂まで200m)

高龍寺本堂
山高氏代々の墓
左:山高信保(中興開基)  右:山高信之(開基)

樹齢不明の大カヤの木
幸燈宮正面

屋根にある花菱の紋
庭に花菱の瓦がに2個飾ってありました。
かつての建物に使われていたと思われます。

馬場美濃守の子が開基した万休院(武川町下三吹)

万休院は、舞鶴の松が有名ですが、残念なことに松くい虫にやられて、枯れてしまいました。
地球の温暖化のせいで、松くい虫が寒冷地にも忍び寄ってきています。


万休院は、馬場美濃守の子、馬場民部少輔による開基だと言われています。
民部少輔は、父美濃守が長篠の合戦で討ち死にした後、跡目を継ぎ深志城の主となったのですが、
天正10年の武田家滅亡のとき、深志城で討ち死にしたそうです。

万休院に民部少輔を物語るものは、殆ど残っていないそうですが、
美濃守が寄進したという竜虎の墨絵が残っているとか。         (08/ 3/ 2 訪問)

武田の割菱
万休院の正面

ユーモラスな石仏様

生きていれば樹齢460年の舞鶴の松
残念なことに枯れてしまった!

武川町牧原の風景(牧原氏)(牧原氏の史跡は見つかっていません。)

牧原は、『まぎのはら』と読みます。国道20号線を通っていると、牧原の標識が見えます。
武川衆としての牧原氏の史跡は、見つかっていませんが、牧原八幡神社に足を止めました。

牧原八幡神社の案内板によると、文武天皇4年(700年)に御牧(官営牧場)の制度が設けられ
甲斐の国では、穂坂牧(韮崎市穂坂町)、柏前牧(北杜市高根町)、真衣野牧(武川村一帯)が定められました。
この中で、真衣野牧は牧原の名前の原型となったそうです。

ここに封じた武田家(一条家)の1人は、武川衆牧原氏となりました。
武田氏が力を得た時代、武田の騎馬軍団を支える馬の飼育がこの辺りでもなされていたのでは?と思います。
                                             (08/ 3/ 2  訪問)

(現地案内板より)

八幡神社

武川町牧原を通る国道20号線



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