見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県北杜市(6-2)武川町

柳沢吉保の祖先・ 柳澤氏の史跡(武川町柳澤)

柳澤氏の系図
  甲斐源氏一条忠頼→一条(武田)信長→○○→一条時信→青木時光→尾張守安遠
  →弥十郎信興[柳沢に住み着き柳沢を名乗る。]→信景→信房→信兼→信久
  →信俊[青木氏(横手氏)
[天正18年(1590年)武州鉢形領(現埼玉県寄居町)へ移る。]

柳澤氏の系図を簡略に書くと
武田氏→一条氏→青木氏(横手氏)→柳澤氏となります。   (08/03/02  訪問)

柳沢吉保の祖父・信俊は、武田軍赤備え・山縣隊として活躍したそうです。
柳沢信俊が、甲府城城番の武川12騎の一人柳沢信勝とどういう関係にあるのかとか
信俊が井伊直政の赤備えに参戦したのかとか、分からないことが多くて興味深いです。
10年ぶりに北杜市柳沢を訪問して、感慨ひとしおでした。
同じ場面の写真がダブりますが、大きい写真が今回撮ったものです。
                                        (18/05/01  訪問)

(武川町柳沢でいただいたパンフレットより  以下も同じです。)

(現地案内板より  以下も同じです。


 
案内板の向こうが柳澤(弥太郎)屋敷伝承地     角度を変えた石仏の向こうに見える甲斐駒ケ岳

 
上の写真2枚は、
柳澤弥太郎貞興の屋敷があったと
地元で伝承のある場所です。
国道20号線を甲府方面から走ってきて、
牧原の交差点を左折して柳原に入ってすぐ
左側にあります。
柳澤史跡保存会の案内板があるので
よく分かります。


案内板の近くにある『凱旋門』は、
左の写真の石の柱らしいのですが、
説明が何もないので、よく分かりません。

         (08/ 3/ 2  訪問)
 凱旋門

   
 
 (上の2枚 18/05/01 撮影)


江戸時代、5代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保は、
ここ武川の出で、武川衆の中では
教来石影政(後の馬場美濃守)と共に、
出世頭と言われています。

武川町柳澤には、柳澤氏の史跡と言われるものは
柳澤氏が開基と言われる柳澤寺と
柳澤氏屋敷跡の二ヶ所だけです。
国道20号線を甲府方面から走ってきて、
牧原の交差点を左折して進み、
柳澤の郵便局近くで左に入ると
右手にあります。

柳澤寺は萬霊塔と石幢以外、
境内とおぼしき場所には、何も残っていません。
柳澤寺の境内(左:石幢 右:萬霊塔

   
 
 
 (上の2枚 18/05/01 撮影)

武川村指定文化財(建造物)    柳澤寺の六地蔵石幢
所 在 地 山梨県北杜市柳沢1539 
指定年月日 昭和53年(1978)11月1日 
 柳澤寺は、龍華山柳澤寺といい、鳳凰山高龍寺(武川町山高)の末寺であるが、柳沢氏が
開基したものと思われる。
 石○は、仏・○○を供養するための石造建築物で、中国では唐・宋の時代に盛行した。日本
には鎌倉時代にもたらされ、地蔵信仰が盛んになった室町時代に多く建立された。
 この石幢は建立年代の分かる石造物の中では本村最古で、円柱状幢身に「明応5年(1496)
丙辰三月○主□透勤白」と刻まれている。青木尾張守安遠の次男信興が柳沢民を再興
しているので、この六地蔵の○主は建立年代からして信興の出家名であると思われる。
 高さ2.3メートルで宝珠、傘、○部(仏、菩薩を祀るところ)は途中で補修されているが
六面にそれぞれの地蔵尊の像が配置され、当時の柳沢氏と地域住民の地蔵信仰の一端を
伝える貴重な史料である。 
平成11年(1999)6月1日     武川村教育委員会

 

 
六地蔵の石幢    六地蔵
 (上の4枚 18/05/01 撮影)

餓鬼の嗌
織田軍が甲州に攻め込んだとき、柳沢吉保の祖父・信俊は一族郎党約500人を連れて、
鳳凰三山の2合目にある『餓鬼の嗌』に逃げて身を隠し、織田信長が死ぬまでの3ヶ月ほどを山中で過ごしました。
一族郎党約500人の中には身籠っている女性もいたそうです。
どんなところか行ってみたいのですが、登山の技術がない人には、とても登れないそうです。
でも、雰囲気だけでも味わいたいと行ってみたのですが、車が大きくて近づくことができませんでした。

いつか、登らないまでも、もう少し近づいてみたいと思います。

(現地でいただいたパンフレットより)

 
 向かって左は石空川かと思います。

   
 
     ここまで来て、道が狭いので引き返しました。
 (上の4枚 18/05/01 撮影)



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