見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県北杜市小淵沢町(2)

信玄の腰掛石(小淵沢町)

信玄の棒道で、小渕沢町から富士見町に入るには甲六川を渡らなければなりません。
甲六川にぶつかる直前で、棒道は右に曲がって甲六川の少し上流で甲六川を渡ります。
その右折するところに『信玄の腰掛石』があります。
棒道を通過中の信玄が、この石に座り休んだという伝承があるそうです。
                           (09/10/09 訪問)

信玄が腰掛けたという伝承のある石

狼煙場(小淵沢町観音平)

観音平に『のろし場』の案内があったので探してみたのですが、見つかりません。
居合わせた人に聞いてみると、展望台の東屋付近がかつての『のろし場』だったとのこと。
しかし、東屋近くの案内を見ると、のろし場の方向を示す矢印は東屋と反対方向を向いています。
反対方向に進んでも、『のろし場』を明確にするものは、なに一つありません。
まぁ、この辺り一帯が『のろし場』だったのだろうということで、場所の特定は諦めることにしました。
                                         (08/ 8/16 訪問)

この辺りが『のろし場』か?  『のろし場』の案内  展望台の東屋

義光山矢の堂跡(小淵沢町観音平)

八ヶ岳の一つ編笠山の登山口となる観音平の名前の由来が分かりました。
甲斐源氏の始祖新羅三郎義光が、大津の三井寺から勧進した
空海作による生観世音菩薩(矢の観音)を武田晴信がこの地に移祀したため、
観音平と呼ばれるようになったそうです。
観音平は、武田の信濃攻略の軍事施設として作られたものです。
晴信は、出陣の際、度々戦勝祈願に訪れています。
晴信は、矢の観音の加護により大門峠の戦いに勝ったという言い伝えがあるようです。
武田氏滅亡後、荒廃した矢の堂は、安永10年(1781年)、同じ小淵沢町内尾根地区に再建されました。

因みに、観音平は、標高1560mです。
          (08/ 8/16 訪問)

石像が残るのみの矢の堂跡

観音平の駐車場から、編笠山への登山道を少し進むと、左側に遊歩道の分岐があります。
この遊歩道を進むと、案内板と石像があって、そこが矢の堂跡です。

再建された義光山矢の堂(小淵沢町尾根地区)

JR小淵沢駅の正面の道を下る感じで進んだところにある再建された矢の堂。
車道に面した大宮神社の後ろにあります。茅葺きの、中々雰囲気のあるお堂です。
今では分かりにくいのですが、よく見ると『尾根』という地形であると分かります。
                                (08/ 8/16  訪問)

大宮神社横からみた矢の堂 矢の堂正面



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