井伊亀之丞の子孫が営む嶋田屋麹店(本町4丁目大横1) |
今川義元に命を狙われた井伊亀之丞(後の直親)は、松岡氏によって長野県高森町に匿われました。
亀之丞は当地で元服し、男児と女児をもうけました。
女子は井伊谷の井伊直虎のもとで育ちますが、男児は母方の塩崎家に引き取られました。
亀之丞が高森町を去るとき、残した短刀が今も子孫である嶋田屋麹店に残っています。
井伊亀之丞は、井伊谷で結婚し、徳川四天王の一人井伊直政が誕生します。
嶋田屋さんに行ったとき店内で撮らせていただいた写真が、うまく撮れていなくて残念です。
(18/ 8/26 訪問) |
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嶋田屋麹店
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店内 |
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井伊家に伝わる井伊亀之丞が残した短刀 |
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上の2枚の写真は、嶋田屋さんの店内にあったものです。
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徳川家康と織田信長を祖父に持つ副姫の墓(松尾町4丁目6番地) |
岳父・織田信長に切腹を命じられた松平信康の子供たちはどうなったのか、
と思うことがありましたが、ここ飯田市で長女福姫(登久姫)に会うことができました。
福姫は、飯田城主であって、小笠原長時の孫である小笠原秀政と結婚しました。
小笠原氏は、武田信玄に滅ぼされて松本の地を離れますが、松本城主だった石川数正の子
康正が改易になった後、秀政は松本城主として返り咲くことができました。
福姫は松本に行くことなく、32歳の若さで亡くなり、飯田で葬られました。
因みに福姫の妹の熊姫は、本多忠勝の嫡男である忠政と結婚しました。
(18/ 8/26 訪問) |
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元は坐光寺という名だった元善光寺(坐光寺2638) |
『坐光寺』はお寺の名前だと思い、飯田市を訪問したときに探してみました。
そして、『坐光寺』というのは地名で、坐光寺にある有名なお寺は『元善光寺』ですが、
元善光寺と名付けられる前は坐光寺(ざこうじ)と呼ばれていたようです。
つまり、『座光寺』という寺の名前が、寺近辺の地名になったということです。
諸説ありますが、後に鎮西八郎為朝の後裔が座光寺村に移り座光寺を称したという
話があります。座光寺氏は、後この地の知久氏とともに武田氏に従いましたが、
武田氏滅亡時(天正10年)には、織田信長に攻められました。
信長死亡後、徳川家康の家臣となった坐光寺氏は、下伊那郡高森町で山吹陣屋を
持ち、明治維新まで家名を存続させました。
お寺の由緒としては、簡単に言えば、
このお寺は推古天皇の頃、本多善光卿によって開かれたもので、
その後皇極天皇の命で長野善光寺へ遷されたという説明板があるのみでした。
とりあえず、写真を撮ってきたのですが、この本堂がある場所も
かつての『坐光寺城』の城郭の一部のようです。
近くにある耕雲寺、麻績神社も坐光寺城の城郭の一部分だそうです。
座光寺氏に関しては、私には不明なことが多いです。 (13/ 3/ 6訪問)
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