見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県伊那市高遠町(1)

武田信玄の五男・仁科盛信が散った高遠城址(東高遠)

コヒガン桜で有名な高遠城址にも、武田家の悲しい歴史があります。
今も残る空堀や石垣は、江戸時代に入って保科正之や内藤氏等によって作られたものかと思われます。
高遠城は、最初は諏訪氏が支配していました。
武田信玄によって諏訪氏が滅ぼされたのち、信玄は諏訪氏の母を持つ4男四郎を諏訪勝頼とし、
諏訪氏の後継者として高遠城を与えました。
信玄が亡くなったとき、長男は信玄との諍いで亡くなっており、次男は盲目ゆえに出家し、
三男は少年時代に亡くなっていたので、四郎勝頼が、後継者として武田に呼び戻されました。
                                         (06/ 4/14 訪問)

桜の名所高遠城へ、今年桜を見に行きました。
本丸の桜は5分咲きでしたが、城の南側は満開でたいへんな人出でした。
高遠城は、武田信玄の5男仁科盛信が織田軍と戦って壮絶な討ち死にを遂げた場所です。
盛信を偲ぶ案内板もいくつかあって、改めて感じ入りました。   (14/ 4/14 訪問)

桜の季節になると、高遠はたいへんな賑わいです。私は何度か行っています。
見過ごしていた案内板や新しく出来た案内板など、探せば高遠城についていろいろ発見があります。
桜を楽しみながら、新しい案内板をさがし、学ぶことも多く充実した1日でした。
                                         (19/ 4/18 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)


 自分坂
 この坂は、その昔、この付近の侍たちが登城のための近道として、自分たちでつくった坂
道なので、「殿坂」に対して「自分坂」と名付けたという。今も城跡への近道になっている。



大手桝形の一部か?

大手門へ登る途中に見える石垣
(多分、江戸時代のものでしょう。)
幕藩体制が出来てからの大手門
山本勘助が縄張りした当時は東側にあったとか。



移築した大手門(正面から) 移築した大手門(背面から)
門の向こうは、勘助曲輪



築城当時はなかったという勘助曲輪は、現在の9番駐車場の奥の部分

勘助曲輪から見る五郎山(08/ 4/26撮影)
(中央の大きな松付近が仁科五郎の墓)

桜が美しい空堀
高遠城は、信玄の同母弟武田信廉が城主となり、後、信玄の5男で仁科家の養子になった盛信が城主になりました。
盛信は、兄勝頼によく仕え、織田信忠が甲斐の国に攻め入ろうとしたとき、
勝ち目のない戦であっても、兄勝頼のために時間稼ぎになろうと善戦しました。
結局、盛信は敗れて、その後、怒涛のごとく押し入った織田勢に味方した小山田信茂によって、
勝頼は天目山で自決に追いやられました。
そんな悲しい歴史を持つ高遠城ですが、現在では桜と紅葉の名所として、賑わっています。
息子信玄によって追放された信虎は、晩年信州に戻り、信玄が亡くなった翌年、高遠の地で81歳で亡くなりました。

5番駐車場付近にあった『犬走』
江戸時代のものでしょう。

08/ 4/26、桜が終わってから撮影した空堀
桜が美しい時期は、緑が少なく、桜の美しさだけが目立ちます。

江戸時代になって、高遠城には、三代将軍家光の異母弟保科正之が入ります。
なぜ、家光の弟が高遠城の主となったかというと、それには次のような話があります。

信玄の死後、諏訪勝頼が事実上の後継者になるにはなったのですが、
ご親類衆筆頭の穴山梅雪と勝頼は、反目する間柄となります。

穴山梅雪の妻は、信玄の次女見性院(信玄正室の娘)で、異母弟勝頼が跡目を継ぐことに不満があり、
夫穴山梅雪に圧力をかけたとも言われているそうです。
梅雪は、穴山一族が武田家を継ぐという約束を家康と取り付けて、勝頼から離反しました。


本能寺の変の直後、梅雪が死亡し、穴山家は梅雪の嫡男・勝千代が継ぎますが、
勝千代は、わずか16歳で病死します。
穴山家はこれで断絶するのですが、見性院は家康の庇護を受けて江戸城で暮らします。
二代将軍秀忠が春日局の女中に男児を産ませたのですが、
正室お江与の方には内密にするため、この子を見性院が養育しました。
これが後の保科正之で、高遠城の主となります。
見性院は、保科正之に武田家家督を継がせることを考えたようですが、
結局保科正之は、最後は会津城の城主となり、徳川将軍家に忠節を尽くす家訓を作りました。
白虎隊の悲劇は、保科正之が作ったものとも言えます。


高遠城本丸にある新城(盛信)神社
天正10年(1582)、武田勝頼の弟仁科盛信は、攻め寄せる織田軍と戦い、壮絶な死を遂げ、
遺体は、勝間の住民により五郎山で荼毘にふされました。

天保2年(1831)高遠藩7代藩主により、盛信の霊を五郎山から場内に迎え入れて
新城神社として崇拝しました。

太鼓櫓    


本丸内にある仁科盛信古戦場跡の案内板

仁科盛信の討ち死に後法要が営まれた法童院曲輪

高遠城遠景 城の向こうは五郎山

東高遠若宮武家屋敷遺跡(東高遠)

次の桜の名所へ行くため、車を停めた駐車場へ急いでいたとき、
『東高遠若宮武家屋敷遺跡』の案内板が目に入りました。
発掘調査が終わった後、埋め戻して駐車場になっているとのこと。
興味深いと思ったのですが、案内板をじっくり見る時間がなかったので、
写真に撮り、家でゆっくり見ることにしました。
駐車場の外れに、移築した江戸時代の建物があったのですが、
これも見る余裕がなく外から写真を撮らせていただいて、高遠を後にしました。
                             (19/ 4/18 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)






武田信虎のお墓がある桂泉院(東高遠)

武田信虎のお墓がある桂泉院ですが、その名にあるように
水に関連した何かがあったようですが、イマイチ、よく分かりませんでした。
内藤下がり藤の紋のあるお寺ですから、
江戸時代の藩主内藤氏の菩提寺かとも思ったのですが、それもよく分かりませんでした。

高遠では、仁科盛信は今も敬愛されているようで、
仁科盛信公400年遠忌を記念して昭和56年に位牌殿が建立されました。
その位牌殿には、仁科盛信、小山田備中、諏訪はな、渡辺金太夫、諸士の位牌が安置してあるそうです。

小山田備中って誰?諏訪はなって誰?と思いました。
武田の家臣に小山田氏は2系統あると聞いたことがあるので、多分郡内の小山田氏とは別系統でしょう。
仁科盛信の妻の中に諏訪はなという名前が見つからないのですが、
多分側室で、盛信と生死を共にした人なのでしょう。(08/ 4/26 訪問)

内藤下り藤
桂泉院と江戸時代の藩主内藤氏の繋がりは
分かりませんが、内藤下り藤の紋があったので
内藤氏縁のお寺だと思います。
本堂


(現地案内板より)

織田軍は、この梵鐘を打ち鳴らしながら進攻してきました。
結果、織田軍の大勝におわったのですが、この梵鐘は城内に捨ておかれました。
関ヶ原の戦いの15年後、高遠城内にあった法鐘院は、桂泉院と改名して梵鐘とともに城外へ移されました。
梵鐘にある傷が、当時の戦いの激しさを物語っています。

武田信玄の父信虎は、信玄に追放された後、諸国を遍歴し最後に
孫の勝頼を頼って高遠を訪れ、8年後(信玄死亡の翌年)に死亡しました。
右側のお墓は新しいもので、『甲斐の国主武田信虎公墓』と書いてあります。

武田信虎のお墓へ行く途中にある『高遠城への水道管』
文化11年(1814年)徳川幕府第11代将軍の頃


左: 『塚原卜伝の碑』  卜伝:延徳元年(1489年) - 元亀2年(1571年) 信玄の時代の人
右: 天文16年、高遠氏を滅ぼした晴信は、山本勘助に高遠城の再構築を命じました。
勘助は、ここから高遠城を眺め縄張りの案を練ったそうです。
そのとき、桜の大木があって、勘助桜と名づけられました。
今は何代目かになっているのでしょうが、どれだか分かりませんでした。

桂泉院から見た高遠城跡(終わった桜ではありますが、満開時は、見事であったろうと思えます。



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