武田信虎のお墓がある桂泉院ですが、その名にあるように
水に関連した何かがあったようですが、イマイチ、よく分かりませんでした。
内藤下がり藤の紋のあるお寺ですから、
江戸時代の藩主内藤氏の菩提寺かとも思ったのですが、それもよく分かりませんでした。
高遠では、仁科盛信は今も敬愛されているようで、
仁科盛信公400年遠忌を記念して昭和56年に位牌殿が建立されました。
その位牌殿には、仁科盛信、小山田備中、諏訪はな、渡辺金太夫、諸士の位牌が安置してあるそうです。
小山田備中って誰?諏訪はなって誰?と思いました。
武田の家臣に小山田氏は2系統あると聞いたことがあるので、多分郡内の小山田氏とは別系統でしょう。
仁科盛信の妻の中に諏訪はなという名前が見つからないのですが、
多分側室で、盛信と生死を共にした人なのでしょう。(08/ 4/26 訪問)
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内藤下り藤 |
桂泉院と江戸時代の藩主内藤氏の繋がりは
分かりませんが、内藤下り藤の紋があったので
内藤氏縁のお寺だと思います。
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本堂
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織田軍は、この梵鐘を打ち鳴らしながら進攻してきました。
結果、織田軍の大勝におわったのですが、この梵鐘は城内に捨ておかれました。
関ヶ原の戦いの15年後、高遠城内にあった法鐘院は、桂泉院と改名して梵鐘とともに城外へ移されました。
梵鐘にある傷が、当時の戦いの激しさを物語っています。
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武田信玄の父信虎は、信玄に追放された後、諸国を遍歴し最後に
孫の勝頼を頼って高遠を訪れ、8年後(信玄死亡の翌年)に死亡しました。
右側のお墓は新しいもので、『甲斐の国主武田信虎公墓』と書いてあります。
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武田信虎のお墓へ行く途中にある『高遠城への水道管』
文化11年(1814年)徳川幕府第11代将軍の頃
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左: |
『塚原卜伝の碑』 卜伝:延徳元年(1489年) - 元亀2年(1571年) 信玄の時代の人 |
右: |
天文16年、高遠氏を滅ぼした晴信は、山本勘助に高遠城の再構築を命じました。
勘助は、ここから高遠城を眺め縄張りの案を練ったそうです。
そのとき、桜の大木があって、勘助桜と名づけられました。
今は何代目かになっているのでしょうが、どれだか分かりませんでした。
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桂泉院から見た高遠城跡(終わった桜ではありますが、満開時は、見事であったろうと思えます。 |