見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県伊那市高遠町(2−2)

仁科盛信のお墓がある五郎山(勝間)

仁科五郎盛信は、仁科家の名跡を継いでいますが、武田勝頼の異母弟で、信玄の5男です。
天正10年(1582年)、織田勢の武田攻めで、唯一合戦に及んだのは五郎盛信だけだと言われています。
高遠城における織田信忠vs仁科盛信の戦いは壮絶を極め、盛信をはじめ家臣一同討ち死にしました。
盛信を慕う勝間の村民は、翌日盛信の遺体を荼毘にふし、高遠城が見える山に埋葬しました。
盛信のお墓があるのは、実際には山頂ではないのですが、それ以来人々は盛信への愛情を込めて
この山を五郎山と呼ぶようになりました。
盛信のお墓から続く東の尾根に、小山田備中、渡辺金太夫、諏訪はな、諸士と四つのお墓があります。
                                            (08/ 4/26 訪問)

武田菱の兜も凛々しい五郎盛信の銅像

仁科盛信のお墓

仁科五郎盛信公四百年記念
仁科五郎のお墓から見る高遠町
真ん中のこんもりした緑の山(白山)の影に、高遠城跡があります。

高遠城から見る五郎山 (14/ 4/14 撮影)


諏訪御寮人のお墓がある建福寺(西高遠)

建福寺は、安元2年(1176年)門覚上人の開創で、後の建長5年(1253年)大覚禅師によって再興されましたが、
武田勝頼により天正年間に中興開山されました。
建福寺には、武田勝頼の母で25歳で亡くなったという諏訪御寮人のお墓があります。
建福寺に向かって左側に回っていくと、3基のお墓があって、一番右が諏訪御寮人のお墓です。
後に、保科正之が高遠城主になったことから、 建福寺は保科家の菩提寺となりました。
左の2基は、保科正直、正光のお墓です。

建福寺の屋根にある家紋は、保科家の家紋角九曜と、徳川家の家紋尻合わせ三つ葉葵の2紋です。
保科正之は、兄徳川家光から松平姓を名乗るように勧められたけれど、固辞したと言われています。
後に会津藩では会津三つ葵を使うようになりますが、正之の時代は遠慮して、尻合わせ三つ葵を使っていたのかな?
と推測しています。


諏訪御寮人の名前は分かっておらず、
井上靖は『由布姫』、新田次郎は『湖衣姫』とそれぞれ小説の中で命名しましたが、
私はどちらも好きになれません。戒名が『乾福寺殿梅厳妙香大禅定尼』ですので、名前は『梅』だったのでは?という説に
賛成したい気持ちです。                                          (08/ 4/26 訪問)

建福寺はかなり急な階段の上にあります。

門を閉ざした本堂
保科氏家紋 角九曜

徳川氏家紋 尻合わせ三つ葵
諏訪御寮人のお墓
乾福寺殿梅獄妙香大禅定尼
諏訪御寮人のお墓近くに

武田信廉が移植した極楽の松(西高遠)

親縁山満光寺は、寺紋から高遠藩主の菩提寺であろうと思われます。満光寺には、極楽の松と呼ばれる松があります。
武田信玄が死を迎えたとき、高遠城主は信玄の同母弟信廉でした。
信玄は死に際し、信廉に高遠城にある松を移植するよう命じ、信廉は自らこの地に移植したという言い伝えがあります。

この松を人目見た者は、極楽に行けるという言い伝えがあるそうで、私も期待できそうです。
因みに、武田信廉は後に逍遥軒信綱と号しました。       
            (14/ 4/13 訪問)

(現地案内板より)

鐘楼門

本堂
極楽の松

藩主内藤氏の家紋
樹齢500余年と言われる極楽の松



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