見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県伊那市

伊那部氏の居城だった春日城址(春日)

天分年間、平氏の後裔がこの地に来て住み着き、城を造りました。
その平氏の後裔の本姓が春日だったので、城は春日城とし
、この地の名前をとって、伊那部大和守重慶と名乗りました。
重慶を相続した但馬守重成は、長男重親を後継者とし、次男重国に伊那市内の東春近に
殿島城を築城させて、殿島大和守と名乗らせました。

天文11年(1542年)に武田晴信が諏訪に侵攻し、高遠、佐久地方を手中に治めました。
晴信は、その後伊那地方にも進攻しましたが、結局伊那軍は破れて和睦が成立し、
春日城は、高遠城の支城といった扱いを受けることとなりました。
弘治元年の第二次川中島の戦いのとき、伊那軍は蜂起するのですが、
怒った武田晴信に伊那衆8名が殺されることとなりました。
その8名の中に春日河内守の名前があるのですが、この人は重親の子供であろうと思われます。

天正10年(1582年)織田信忠が、高遠城を攻めたとき、時の春日城城主春日河内守昌吉は
仁科盛信ともに戦い、討ち死にしました。以来、春日城は廃城となって、今日に至っています。 
                                          (08/ 4/28 訪問)


春 日 城 の 沿 革
天文の昔、平氏の遺孫粟田口民部の16代の○○がこの地に来て城を築く。この城を春日城と言う。
城主は地名を氏とし伊那郡大和守重慶と言い、始め300貫文を領し10騎の将であったが次第に増大す。
本姓は春日氏であって伊那地方の重鎮であった。其の子但馬守重が継ぎ、更にその長子左衛門尉重親が継
いだ。この時次子重国を殿島につかわし殿島城を経営させた。弘冶2年武田信玄の為に切られた郷士の中
に春日河内守があるが、これは重親の子であろう。後の城主春日河内守昌吉は高遠城主仁科盛信の麾下の
将となる。天正10年織田信忠の大軍の来攻に遭い、城は悉く兵火に罹り炎上した、昌吉は部下を引きつれ
高遠城に参じ、虎口の門を死守し討死し、盛信と運命を共にした。以来この城は再興の主がなく廃城となった。
城○は天然の丘岬を利用して築城したもので、規模は宏大で、本丸、二の丸、三の丸は空掘によって分かれ
ている。周囲の北、東、南は渓にのぞんでおり、西は大手の位置で○野に接している。城の東方に出丸がある
が、之を足花ヶ崎と言い、古来桜の名所として知られている。
(現地案内板より)

本丸橋(橋の向こうが本丸)

本丸橋の下の空堀
春日城本丸址 本丸から見る仙丈ケ岳
(ボンヤリとしか見えません。)

ニの丸橋 二の丸橋の下の空堀

春日城は、本丸、二の丸、三の丸がほぼ同じ高さで、あえて言えば三の丸がやや高い位置にあるかな? という感じです。
どの郭も深い空堀で囲まれていて、その保存状態が良いのに驚かされます。
今は、公園として使われているので、各郭は橋で繋がれています。

08/ 4/26に訪問したときは、もう桜はほとんど終わっていましたが、八重桜は満開で見事でした。

二の丸址

満開の桜もありました。
三の丸橋

子供の遊び場になっている三の丸
八重桜が満開でした。

二の丸と三の丸の間の空堀 外から見た春日城

春日城の支城だった殿島城址(東春近7300−160)

殿島城は、春日城の支城でした。
できた経緯に関しては、この上の『伊那部氏の居城だった春日城址』にありますので、ここでは割愛します。

先に春日城を見たので、本丸、二の丸、三の丸といった規模のものを想像していたのですが、
空堀に囲まれた大きな郭が一箇所あるだけで、やや拍子抜けしました。
しかし、よく見ると、土塁が他の戦国時代の城郭と較べると高くて、空堀もしっかり残っています。
なかなか見ごたえのあるお城でした。今は、公園となって、子供たちが遊んでいました。
桜の名所だそうですが、この日には桜はすっかり終わっていました。  (08/ 4/28 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)


左: 公園入り口左側の土塁と空堀
右: 殿島公園城址公園入り口
石垣が少しあるのですが、最近になって積んだのではないかと思います。

入り口を入ったところ

右手にある『殿島城址』の碑
子供たちが遊べるようになっています。 立派な土塁が残っています。



甲斐武田氏の史跡・目次][年表