春 日 城 の 沿 革 |
天文の昔、平氏の遺孫粟田口民部の16代の○○がこの地に来て城を築く。この城を春日城と言う。 |
城主は地名を氏とし伊那郡大和守重慶と言い、始め300貫文を領し10騎の将であったが次第に増大す。 |
本姓は春日氏であって伊那地方の重鎮であった。其の子但馬守重が継ぎ、更にその長子左衛門尉重親が継 |
いだ。この時次子重国を殿島につかわし殿島城を経営させた。弘冶2年武田信玄の為に切られた郷士の中 |
に春日河内守があるが、これは重親の子であろう。後の城主春日河内守昌吉は高遠城主仁科盛信の麾下の |
将となる。天正10年織田信忠の大軍の来攻に遭い、城は悉く兵火に罹り炎上した、昌吉は部下を引きつれ |
高遠城に参じ、虎口の門を死守し討死し、盛信と運命を共にした。以来この城は再興の主がなく廃城となった。 |
城○は天然の丘岬を利用して築城したもので、規模は宏大で、本丸、二の丸、三の丸は空掘によって分かれ |
ている。周囲の北、東、南は渓にのぞんでおり、西は大手の位置で○野に接している。城の東方に出丸がある |
が、之を足花ヶ崎と言い、古来桜の名所として知られている。 |