見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県長野市(1)

VS 川中島古戦場八幡原(小島田町)

川中島の戦いは、合計5回ありました。
しかし、実際に激突したのは、第4次のことで、一般に川中島の戦いとはこの4次(永禄4年、1561年)をさしています。
八幡原に陣をしいた武田軍、妻女山に陣をしいた上杉軍。
武田軍は、妻女山にいる上杉軍の背後をついて挟み打ちにしようという山本勘助の意見を取り入れて、
目立たぬように常より多い炊事の準備に取り掛かりました。
しかし、それでも常より多い炊事の煙に、上杉軍は武田軍の動きを察知し、 夜の間に妻女山を密かに下りました。
翌朝、武田軍の別働隊が妻女山を背後から襲ったのですが、妻女山はもぬけの殻。
手薄になっている武田軍に上杉軍が一気に襲い掛かりました。
最初は上杉軍が優位に立ちましたが、妻女山から武田の別働隊が戻ると 武田軍が優位にと状況が変わりました。
しかし、敵味方3万人のうち6千人の死者を出したにもかかわらず、決着はつきませんでした。
武田軍は、この戦いで武田信繁、山本勘助を失うことになりました。


上信越道長野インターを降りると、川中島古戦場の案内が見えます。07/ 4/16、通りかかったので、寄ってみました。
三叉路を右折して千曲川を渡って車で3分ほどで、右手に史跡公園が見えてきます。
川中島古戦場跡は、この史跡公園の中にあります。              (07/ 4/16 訪問)

(現地案内板より  以下も同じです。)















川中島古戦場八幡原
川中島合戦は今から400年前天文22年より永禄4年に至る13年の永き亘って行われた
たが、後世広く伝えられている川中島合戦は、永禄4年の戦をさしている。
この戦は越後の勇将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がここ川中島に雌雄を決戦と武田勢
は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余、9月10日未明の霧深い
中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車がかり」の攻撃で双方死闘を尽くし、ここ八幡原は
大修羅場と化した。
その中にあって謙信はただ一騎、愛刀「小豆長光」を振りかざして武田の本陣に切り込み
不意を突かれた信玄は、軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀七太刀」もこの
場所である。時に信玄41歳、謙信32歳であった。
この戦いで死者7千を数え、史上最大の激戦で両将の決戦場ここ八幡原に現存する土盛
りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部でを物語っている。
両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし、現代戦にも多く採用されたと聞く。
武田の居城海津城は、東南4キロの松代に、また頼山陽の「鞭声粛々夜川を渡る」で有名
な雨宮の渡は東側を流れる千曲川の上流約6キロの地点である。

第4次川中島合戦陣容(八幡原古戦場案内板より)
武田義信がいないのはなぜ??















史跡公園の一角に 有名な一騎打ちの銅像
諏訪法性の兜の信玄
(逆光になるので反対から)

白い布を被った政虎
川中島合戦のときの土塁が今も残っています。これが何よりすばらしい!

左の画像: 政虎と信玄の一騎打ちが本当にあったかどうか不明だそうです。
しかし、信玄に襲い掛かる謙信に、槍で信玄を守り、惜しくも政虎を逃がしたことを
残念がった原大隈が、悔し紛れに突き刺した『執念の石』が今も残っています。
原大隈は、武田家滅亡後徳川氏に八王子千人同心として仕え、
現神奈川県相模原市橋本に住み着き、その末裔原清兵衛の祖となりました。
原清兵衛は、幕末に相模原の新田開発に尽力し、今も『清新』の名を
相模原市に残しています。
右の画像: 信玄の本陣があったとされるところ。『三太刀七太刀之碑』があります。
碑の後ろには、土塁が残っています。
後ろの大きな木は、本陣を作った際、土塁の土留めに信玄が『えんじゅ』の木を
根を上にして突き刺したところ、400年を経て、こんな大木になったんだそうです。























左の画像: 逆光になってしまいましたが、首塚と呼ばれるもの。
武田家家臣高坂弾正が、敵味方関係なく死体を集めて手厚く葬ったとされる場所です。
ここより、東南180mのところに、もう一つ大きな首塚が残っているそうです。
右の画像: 史跡公園内の桜が実に見事でした!

























川中島は、犀川と千曲川が合流する地域を指しています。
これはその合流点付近で、左犀川、右千曲川、前方は落合橋です。
                             13/11/29 訪問)

典厩信繁の守役・諸角豊後守の墓(小島田町)

(現地案内板より)

諸角豊後守は信玄、
信繁兄弟の大叔父に当たる人で、
信繁の守役でもありました。
第4次川中島の合戦で、
信繁が壮絶な討ち死にをすると
豊後守も敵陣に切り込み、
奮戦の末討ち死にしました。


県道35号線を古戦場を過ぎて北北西に進むと
国道18号線に出会いますが、
国道に出会う少し手前左側に
豊後守のお墓があり、ここが彼の最期の場です。

きれいにお花が飾ってあるお墓に
豊後守は眠っています。
(13/11/29 訪問)



甲斐武田氏の史跡・目次][年表