見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県木曽郡(2)

真理姫のお墓(木曽町三岳)

木曽家18代領主木曽義康は、武田晴信と戦ったのですが、降伏したので、晴信はこれを許し、
息女真理姫を義康の息子義昌に妻として与えました。弘治元年(1555年)、義昌16歳、真理姫6歳のときのことです。
武田家の御親類となった義昌は、晴信によくつかえたのですが、
信玄没後真理姫の兄勝頼が武田家を継ぎ、長篠の合戦で勝頼が大敗を喫すると、事情が変わってきました。
勝頼が、新府城建築のため木曽の木材を供出するよう命じたことに義昌が不満を持ったとも言われています。
天正10年、織田・徳川の連合軍による武田攻めが開始されると、義昌は武田を裏切ることになります。
夫の裏切りを知った真理姫は、兄勝頼に内報し、自ら離別します。
勝頼は木曽討伐の兵を挙げますが、勝頼は義昌にも負けてしまい、結局後に田野で自刃することになってしまいました。

天正18年、木曽は秀吉領となり、木曽氏は下総網戸へたった1万石の領主として移封されます。
真理姫は、下総には行かず、三岳村野口の上村作右衛門宅に身を寄せ、この地で98歳の天寿を全うしました。

真理姫のお墓は、今も上村家の敷地内にあるというので、2007/ 7/19に行ってみました。
木曽ダム沿いの県道20号線を進んで、三岳中を過ぎたあと北上します。
途中、2ヶ所道標があるので、迷わず行けるのですが、その道が行き留まったところで、分からなくなります。
その道の行き止まりの少し手前左側に1軒のお宅があるのですが、そこではなくて、
もう1軒下の向かって右側にあるお宅が上村さんのお宅です。
真理姫のお墓は、木に埋もれて見えなかったのですが、幸いなことに通りかかった郵便配達さんに教えていただきました。

真理姫のお墓は、ひっそりと歴史を超えて佇んでいました。
お墓の向こうにある家が上村家なのだろうかと、そっと表札を見に行くと、この家の住人の方が出てきてくださいました。
この方は、植村家にお嫁にみえた方で、以下上村さんとお呼びします。

上村さんがいろいろ話して下さいました。
上村家は何度か火事にあって立て替えたけれど、まさしく真理姫が暮らしたお家であること。男が先に死んで、女が生き残るー。
財団の人が来て、真理姫のお墓を移転して、義昌のお墓と一緒にしたいと言われたけれど断ったこと。
20年くらい前、下総網戸(現千葉県旭市)に上村さんが行ったとき、
今も真理姫のお墓を守っていると話すと、手を合わせて拝んでくれた人がいたこと。    等等

タイムスリップしたような、不思議な感覚にとらわれました。                  (07/ 7/19 訪問)

(現地案内板より)

真理姫のお墓 真理姫が身を寄せた上村家


上村さんのお話によると、
上村家の近くにある『若宮』は、
真理姫の若くしてなくなった子供が
祭ってあるというーーー。

上村家での伝承であるが、
近隣でもそれを知っている人
ほとんどないとそうです。

立ち寄ってみると、7月19日は若宮の祭礼で、
氏子さんたちが、忙しそうに
立ち働いていました。
御岳神社里宮(若宮)

真理姫の供養塔がある大通寺(木曽町福島)

大通寺は、関ヶ原の合戦以降に、木曽代官山村氏によって、建立されたお寺です。
山村氏は、木曽家の重臣であったことから、大通寺に真理姫の供養塔を建てたと言われています。
重福寺の信玄のお墓と比べると、かなり大きいものです。(07/ 7/19 訪問)

真理姫供養塔
 甲斐の国(山梨県)武田信玄公の三女。
 弘治元年(1555年)に信濃に進行した武田家に木曽義康が降伏し、当時6歳の真理姫は義康の嫡男、木曽義昌の正室と
して木曽家に嫁入りし、武田家と木曽家は親族となった。武田家が、飛騨・美濃のこっ今日を支配する木曽家を重く見たた
めである。木曽からは3人の人質が送られている。
 しかし天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐が始まると、真理姫の夫・木曽義昌が義兄・武田勝頼から離反し、信
長と結んだ。木曽家の人質はその際、処刑されているが、義昌は真理姫を木曽山中にかくまっている。
 木曽家がお取り潰しとなってからは、三男義一(よしかず)と旧家臣らによって保護されて98歳まで山中で暮らした。
 この大通寺は、木曽家の屋敷跡である。元木曽家家臣で、後に福島関所の代官になる山村家によって創建されたご縁に
より、この供養塔が建立された。
 尚、真理姫のお墓は晩年を隠れ住んだ山中にひっそりと建てられている。
(現地案内板より)

大通寺山門 真理姫の供養塔


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