見て歩く甲斐武田氏の史跡ー甲府市(1)

武田信親(海野竜芳)が自刃した入明寺(住吉四丁目)

武田信玄の次男(母は三条夫人)は、幼少時に病から失明しました。
21歳のとき、信玄が信州海野城を攻め滅ぼし、信親は海野氏を継承し、出家して竜芳と号しました。
出家したとはいえ、半俗半僧の身で『御聖道様』と呼ばれていました。

異母弟武田勝頼が、織田・徳川の連合軍に追われたとき、 信親は入明寺の住職に匿われましたが、
勝頼の敗死を知り、入明寺の境内で割腹自殺したと言われています。
入明寺には、遺骸を埋めた場所にお墓がありますが、当時は紅梅を1本植えて墓標にしたほど、
織田・徳川に対し警戒していました。


信親の子供たちには累は及ばず、現在武田家の15代昌信氏が東京都の経堂に在住しておられます。
ところで、出家した信親がなぜ自刃しなければならなかったのか?
それほど信長の残党狩りは厳しかったのか?
という小さな疑問があったのですが、次のように考えると納得がいくような気がします。
信親は、出家したとはいえ半俗半僧で、80騎を擁する武将でもあり、
自らが参戦しないまでも、武田騎馬軍団の一翼を担っていたという説を読んだことがあります。
となれば、当然信長の残党狩りの対象になります。
また、信親の家族(息子)になぜ累が及ばなかったかですが、
それは、武田家滅亡後三ヶ月後に本能寺で信長が死んで残党狩りどころでなくなるまで逃げおおせたから
ではないでしょうか。三ヶ月後の信長の死を予測できれば、もっと多くの人が粘り強く逃げて、助かったの
ではないかと残念が気がします。

信玄が元服して晴信を名乗った当時の入明寺の住職は、京都の公家の出身だったので、この住職が
三条家の姫と晴信との縁談に口をきき、今川氏の媒酌で婚姻が成立しました。  (09/ 1/ 8訪問)

鉄筋コンクリートの本堂

古い鐘楼
画面右が紅梅か?

武田信親の墓
武田の割菱

川田館(信虎居館)跡(川田町361)

川田館は、信玄の父信虎の祖父にあたる信昌が作ったと言われています。
石和館とも言われていますが、川田町は甲府市と石和町の境目の甲府市内にあるので、
石和町で、信虎居館跡を探すと見つかりません。

旧甲州街道(R411)を甲府方面に向かい、右・石和温泉駅の交差点を過ぎてから約1km
進むと川田町の交差点があります。この交差点を右折、突き当たりを左折した右手の葡萄
園に川田館跡の案内板があります。

信虎が、躑躅崎館に居館を移すまで、ここが政治経済の中心地でした。(06/ 6/27 訪問)

   川田館跡
 川田館跡は、武田信玄の父信虎が永正16年(1519)につつじヶ埼(現在の武田神社一帯)に館を移すまで、
甲斐国統治の中心であった。15世紀後半信虎の祖父信昌がこの館を築いたといわれる(甲斐国史)が、信虎が
築造したという説(王代記)も出されている。
 現在でも「御所曲輪」「御馬屋敷」など城館跡に関係する伝えられる。「御所曲輪」と呼ばれる一帯には堀と土塁
の痕跡が認められ土地区画から南北1町(約109M)・東西2町(約218M)に及ぶ館を推定することができる。
 昭和62年(1987)甲府史編纂室によって試掘調査が実施され、15〜16世紀のほぼ信昌〜信虎の時代に
あたる土器や擂鉢、大陸から輸入された陶磁器が出土した。
   平成16年3月                         川田町青少年育成会
(現地案内板より)

川田館跡の案内板 付き当たって左折すると右側に川田館跡の案内板が

川田館の範囲に入っていただろうと言われる二宮大明神



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