見て歩く甲斐武田氏の史跡ー甲府市(2−1)

武田信玄産湯の井戸がある積翠寺(上積翠寺984)

1521年飯田河原の戦い(信虎vs福島正成)のとき、信虎の正妻大井夫人は、要害山の麓の積翠寺に
避難してきていました。戦いの最中に生まれた男児が、後の信玄です。
境内には、信玄が産湯をつかったという井戸が残っています。

要害山の頂上に、要害城があって、今も石碑が残っているそうですが、今回(07/ 6/25)は、登りませんでした。


積翠寺正面

積翠寺と要害山
信玄公産湯の井戸

躑躅ヶ崎館に敵が攻め込んだときのための要害山城(上積翠寺)

要害山城は、永正17年(1520)に武田信虎が造った山城です。
躑躅ヶ崎(つつじがさき)館は、平時に政務を司る場所、要害山城は、敵に攻め込まれたときに籠もるための城でした。
信虎、信玄、勝頼の3代にわたり、武田の詰城とされましたが、実際に戦闘に使われることはありませんでした。
同年、今川氏の武将福島正成が甲斐へ侵攻し甲府に迫ったとき、信虎は大井夫人を要害城に避難させ、
夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産したといわれています。
出産した場所は、積翠寺だという説もあるようですが、要害山はかなりの急な坂を、
積翠寺から230mも登らなければなりません。
輿に乗ってはいたでしょうが、出産近い夫人が頂上まで登るのは、あまりにたいへん!
私としては、積翠寺説をとりたくなるところです。

信玄亡き後、勝頼は要害山城の修復を命じたそうですが、
新府城など築かず、ここの修復を継続すればよかったのに!などと思いました。
要害山の登り口に『要害』という温泉がありますが、ここは『信玄の隠し湯』の1つだったそうです。
                               (2013/ 4/ 5 訪問)
標高 780m 比高 260m
諸説あり
(現地案内板より  以下も同じです。)


要  害  山
 要害城は、永正17年(1520)に武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急
に立てこもる詰の城としての役割を担っていました。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏
滅亡後修築・再整備されました。
 城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、升形虎口や郭が複雑かつ連続的に付設されているほか、堅堀や堀
切を要所に設けて防御を固めています。山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したものと推定されます。
 南東尾根上には支城の熊城があり、深い堀切で区切られた連続的な小郭と畝状竪掘が特徴的です。また、ふ
もとに根小屋の地名が残り、城番を勤める武士の屋敷が想定されています。
 要害城は、熊城とともに遺構のの保存状態がきわめて良く、記録が豊富に残されているなど、戦国期の山城の
様相を今日に伝える貴重な山城です。             (平成3年3月30日指定)

レンゲツツジと桜が美しい要害山

登山口

美しいレンゲツツジ

向こうに『土塁』 手前に『竪掘跡』

頂上までに四つあった『門跡』のうちの最初
草でよく見えまませんが、
看板の向こうは平坦地になっています。

江戸時代後期に建てられたお不動様です。

左: 二つ目の『門跡』
右: 写真では分かりにくいのですがかなり大きな曲輪で、険しい登りが続きます。

主曲輪にもう近い、広い曲輪

三つ目の『門跡』

最後の『門跡』

やっと辿りついた『主曲輪』、かなり広い!

『武田信玄公誕生之地』の碑信玄公は、積翠寺で生まれた説と要害山城で生まれた説と両方あるそうです。

裏門という感じで深草観音方向にも門があります。

裏門を出たところにある『堀切跡』 更に少し下ったところにある『竪堀跡』



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