見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県南巨摩郡(2)

狼煙台ネット・ワーク・葛谷城跡(南部町十島)

山梨県と静岡県の県境にある葛谷峠に信玄の狼煙台があったと聞き、行ってみました。
葛谷峠付近は、開発が進んでいて、お城だの狼煙台だのの形跡はありません。
しかし、よく見ると何やら史跡らしきものがあったので、見に行きました。
そこにあったのは、次の三つです。
信玄の供養塔 元々は一の曲輪にあったもの 慶應年間 十島村の住民
日蓮上人の題目碑 元々は旧道の峠にあったもの 文政12年 十島村の住民
葛谷城旧跡の碑 平成18年 南部町教育委員会

旧跡の碑の説明によると、永正12年(1515年)ここに今川家によって城が築かれました。
永禄10年(1567年)以降は、武田信玄のものとなり、規模が拡大されました。
発掘調査では、土塁を巡らした一の曲輪、二の曲輪、東の曲輪、
曲輪を取り囲む空堀等の 遺構が発見されました。

今は、この葛谷城旧跡の碑しか残っていないのですが、国道の峠から更に登ったところに、
白鳥山からの狼煙ネットワークがあったのでしょう。       (2008/ 3/26 訪問)

葛谷城旧跡の碑を通して見る白鳥山 白鳥山頂上から見た葛谷城旧跡の碑(画面真中)
狼煙台は、この背後の山頂にあったのでしょう。

信玄の供養塔 日蓮上人の題目碑

穴山信治(勝千代)のお墓がある最恩寺(南部町福士)

武田家のご親類衆の筆頭である穴山家は、現在の身延町・南部町付近に領地を持っていました。
穴山家の嫡男勝千代は、天正8年(1580年)に父穴山信君が出家すると同時に9歳で家督を継ぎました。
天正10年の本能寺の変のとき、穴山梅雪(信君)は落命するのですが、
徳川家康は穴山家の本領を安堵しました。
家康は、穴山信治(勝千代)を滅亡した武田家の継承者とするとしていたのですが、
勝千代は天正15年(1587年)には疱瘡によって16歳で死去しました。
勝千代には子供がなかったので、これで穴山家も断絶してしまいました。

この勝千代のお墓が最恩寺にあります。
なぜか、穴山信冶の墓とはせず、『勝千代の墓』となっています。
 (2008/ 3/26 訪問)

(現地案内板より)

本堂

本堂の屋根にある武田の割菱
仏 殿 仏殿の裏にある勝千代の墓



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