見て歩く甲斐武田氏の史跡ー山梨県南巨摩郡(2)

万沢口留番所跡(南部町万沢)

  町史跡
万沢口留番所跡
昭和49年6月10日指定   
 甲斐の国24関の一つで甲駿2州の国境として重要な位置にあった。
天正10年3月には徳川家康がこの番所を通過している。
 吉田家代々関守を勤め、下役は村役であった。
 番所は桁行4間、梁間2間、関門両袖1丈2尺、高さ1丈4尺、桁行
1丈7尺、明9尺であったが、明治5年5月、全く取り払われるに至った。
 平成元年3月
 富沢町教育委員会      
(現地案内板より)


以下は、万沢在住の郷土史研究家の方から
伺ったお話です。

万沢の領主万沢氏は、穴山梅雪の家老でした。
駿河と甲斐の国境を良く守り、
武田家によく尽くしたのですが、
穴山梅雪が武田勝頼から離反したとき、
行動を共にしました。
穴山梅雪が本能寺の変のとき、
関西から逃げ切れず殺されたとき、
万沢家当主も一緒に殺されました。

しかし、当主以外の家族は万沢にいて難を逃れ、
徳川家の庇護のもと万沢家は存続し、
現在に至っているそうです。
            (2008/ 3/26  訪問)
万沢口留番所跡

万沢口留番所は甲斐の国24関の一つで、駿河と甲斐を結ぶ重要な関所でした。
天正10年、織田・徳川の連合軍が武田勝頼を攻めたとき、徳川家康はこの関所を通過したそうです。

代々吉田家が関守を勤めていたそうで、番所跡の案内板があるお家が、つまり吉田家です。
案内板に向かって左にあるガソリンスタンドを経営なさっているのが、吉田さん。
古い倉を壊してガソリンスタンドにしたときは、散々反対されたとご主人の弁。
吉田さんご夫妻から、番所の見取り図など貴重な書類の写真を見せていただいて、
それをまた写真に撮らせていただきました。
こちらをご覧ください。

甲斐方向が狭くなっています。 甲斐方向の真っ直ぐの道

万沢を真っ直ぐの道が走っていて、そこを『宿』と言います。
駿河方向に進んで、真っ直ぐの道がカーブする直前右側に『口留番所跡』の案内板があります。
この真っ直ぐの道沿いの家は、よく見ると家が少し斜めになっていて、
家の前のスペースが駿河方向で広くなっています。
これは、『武者隠し』と呼ばれ駿河からの敵が攻め込んできた場合に備えたもので、
武田氏の時代からあったものが、現在も残っています。
当時、実際は馬を留めたり、籠を置いたりするスペースとして使われたのだそうです。

駿河方向が広くなっています。 駿河方向の真っ直ぐの道

今川と信虎が合戦した、いわゆる万沢口の合戦があった場所と信玄が信虎を追放した場所は、
はっきり特定は出来ていませんが、地形などから考えると、両方とも
52号線沿いの境川から万沢トンネルの間1kmくらいのことではなかったか?ということだそうです。

狼煙台ネット・ワーク・白鳥山(南部町万沢)







(現地案内板より)

白鳥山は、国道52号線から入り、
随縁カントリークラブを横切ると
頂上まで300mのところまで、車で行けます。

駐車場から少し戻ると頂上への登山コースとなります。
綺麗に整備された道を登っていくと
右手に山番小屋跡があります。
頂上には、狼煙台があったとのこと。
白鳥山は見張りのために使われたもので、

万沢氏の住居とか城とかではなかく、
万沢氏は、『宿』近くの『上代』『御屋敷』に
住居を構えていたそうです。
白鳥山という美しい名前の由来ですが、
『城取り山』が転じたものだという説があります。
            (08/03/26 訪問)
山番小屋跡

狼煙台はこのあたりに 頂上には展望台が作ってありました。

曇っていて富士山は見えませんでした。 随縁カントリークラブを下山中に見た白鳥山



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