見て歩く日本の城と史跡ー東京都町田市(1ー2)

小山田信茂が小山田城主?(下小山田町)

武田家に従っていた小山田信茂(1539〜1582)が、町田市の小山田城の城主でもあった
という説があると聞いて、小山田城址に行ってみました。現在の町田市下小山田町にある大泉寺がそれです。

大泉寺の裏に城址の史跡があるとかですが、見つかりそうにもありませんでした。

なぜ、大月市の岩殿山城の城主だった小山田信茂が町田市に領地を持っていたかというと、異説もある
ようですが、次のようになります。鎌倉時代に秩父重弘の子小山田有重が、この地に小山田城を築きました。
小山田有重には6人の男の子がいて、長男は幼年の頃に亡くなり、二郎重義はこの小野路の副城である
小野路城の城主となりました。鎌倉幕府の有力御家人であった小山田氏は、北条時政の勘気に触れて、
実朝の名において三郎重成、四郎重朝らは、二俣川で殺されて、生き残ったものは離散しました。
生き残った子孫の小山田高家が、
新田義貞の挙兵(1333年)に参加して領地を取り返しますが、
小山田高家は1336年戦死して、小山田領は人手に渡ってしまいました。

一方、生き残った小山田有重の子六郎行幸が、甲州郡内小山田氏として甲州に住み着きました。
それが岩殿山に城を持つ小山田信茂の一族で、信茂は有重から数えて17代目になります。
戦国時代、小山田信茂は武田信玄の配下であったというよりは、信玄の同盟者であって、北条氏からも領土
を持つことを認められていました。

小山田越中守信有 小山田出羽守信有 小山田弥三郎信有(若くして死亡)
小山田(越前守)信茂
町田市下小山田町の旧小山田城の城主は、その当時、小山田弥三郎という人だったのですが、
小山田信茂の兄も弥三郎と言いました。

兄弥三郎が若くして死亡し、後を継いだ信茂が、岩殿城のみならず、町田市の小山田城も受け継いだの
ではないかと思われます。

小山田信茂の祖父小山田越中守の妻は武田信虎の妹なので、信玄と信茂は縁戚関係にあります。


『武田勝頼を裏切った』と言われ続ける小山田信茂が、町田市下小山田町にも領地を持っていたというのは、
この近くに詳しい者には感慨があります。

小山田有重の母は、小野孝兼の娘なので、有重も横山党の血をひくと言えます。
小山田の近くにかつて横山党の小山有高の居城がありました。
小山有高は、横山党の一員として和田合戦に参加して戦死しています。


小山田有重』『小山有高』と名前も似ていますし、『小山氏』の田があった場所が『小山田』。
何かこの当たりがもやもやします。
             (06/ 3/ 8  訪問)

(現地案内碑より)

立派な山門の向こうに本堂があります。

 
本堂は鉄筋コンクリートです。   小山田城址の碑

横山党・小山氏の居館はどこにあったのか?(小山ケ丘)

 相模原市と町田市に跨る『小山』に、かつて横山党が住みついて、小山氏を名乗ったという・・・・。
その当時の小山氏の居館は、どこにあったのでしょうか?ネットで調べてみると、候補は二つある
ようで、現札次神社があるところと、現小山ケ丘3丁目だそうです。
 どちらかは、判明していないようです。当時の川筋と現在の川筋が大きく違っている可能性は
あっても、札次神社の方が境川に近いので、私は札次神社のような気がします。
勝手な推測ですが・・・・・・・。               (23/02/27 記)


札次神社

小山城跡



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