見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県松本市(1ー2)

小笠原氏の本城・林大城/金華山城(里山辺)

南北朝時代に信濃守護となった小笠原氏は、この地に雄大な城を築き、本拠地としました。
天文17年(1548)、小笠原長時は塩尻峠の戦いで武田信玄に破れ、林城は廃城となりました。

武田信玄は、同じく小笠原氏の城であった深志城(現松本城)を信濃の拠点としました。
林城は、大城、小城からなっていて、戦国時代の城には珍しい立派な石垣に目を奪われます。

ハイキングコースとしても、なかなか楽しめますので、できるなら一筆書きで回りたいものです。

金華橋のそばの東城山遊歩道登り口→林大城主郭→主郭を突っ切って大嵩崎集落へ下山
→大嵩崎集落を下る→林小乗登り口→林小城主郭→主郭を突っ切って廣澤寺方面へ下山
→東城山遊歩道登り口へ戻る      (09/ 4/12 訪問)

薄川にかかる小松橋から撮影

(現地案内板より 以下も同じです。)


金華橋付近にある登り口

登り始めて10分くらいのところにある見晴らし台から撮影いた松本市街と薄川

平らに見えますが、
かなりの登り坂です。


本当に門があったかどうか
確証はないそうです。
最初の空堀

次の空堀
左: 二つ目の空堀を過ぎたころから登山道の両側に雛壇のような郭が続きます。
きっと武家屋敷でもあったのでしょう。この石垣は、その雛壇にあったもの。
発掘すれば、他にも石垣がありそうです。
右: かなり大きな郭もありました。これは城の一部だったのではないでしょうか。

左: 更に上って行くと車道に出て、車でもこられますが、車道はここで行き止まりです。
その車道を横切って一段登ったところに、松風亭という休憩所があります。
右: 松風亭を左に見て、主郭に続く道があります。

主郭を守る空堀

この石段は当時のものでしょうか。
かなり広い主郭

郭を囲む土塁は、石垣になっています。
馬場跡(画面左は主郭、
右側をもし下ると薄川へ)
かなり細長いスペースになっています。

主郭の桜
左: 馬場跡のへり、更に薄川よりにあります。お姫様が化粧した場所だそうです。
右: 案内板からかなり下った所にあります。 今は、もう水はでないそうです。

左: 主郭を突っ切って、大嵩崎集落へ下りる途中で主郭を振り返りました。
右: 大嵩崎集落へ下りる途中で一つだけ見つけた空堀。

急傾斜の道に石が敷いてありました。 大嵩崎集落は、すぐそこです。

大嵩崎集落

大嵩崎集落は坂の両脇に人家があります。
城主の館は大嵩崎集落にあったとも言われています。

下水の蓋の模様は、手毬。 急傾斜の大嵩崎集落

林小城(福山城)

大嵩崎集落を下って行くと、
左側に小城の登山口が。

『地獄の釜』だそうです。
空堀とかは見つからず、
ひたすら登ります。


小規模ながら、
雛壇のようなものがありました。
目の前にそびえる石垣。戦国時代の城でこれほどまでの石垣は初めて見ました。

石垣の上にある主郭。ここにも石垣が残っています。
正面向こうの土塁も石垣でできていたのでしょう。裏に回ってみたのが、右の写真です。

主郭の反対側から廣澤寺方面に
下りられます。


途中、郭らしき平坦なところが
ありました。
アスファルトの道に下りました。正面が林大城。背面が廣澤寺方面です。

石川数正夫妻のお墓がある兎川寺(里山辺2940) 

裏切り者の汚名が付きまとう石川数正ですが、松本の領民から尊敬の気持ちを集めていたようです。
松本地域のかつての領主小笠原氏の祈願所・兎川寺に石川数正夫妻の墓(供養塔)がある
と聞いてお参りに行きました。

兎川寺に、『小笠原ぼたん』があります。『小笠原ぼたん』は、松本城にもあります。
とても美しいお話なので、満開の頃に見に来たいと思っています。  (18/ 8/ 6 訪問)

(現地案内板より)

聖徳太子創建の兎川寺


    兎川寺は小笠原氏の祈願所でした。 

小笠原牡丹
 天文19年(1550)7月に甲斐の武田信玄に攻められた小笠原長時は、林城館にあった純白の牡丹
が敵兵に踏み荒らされることを憂えて、これを里山辺の兎川寺に託して去った。
 その後同所の久根下家は、このボタンを守り、昭和32年(1957)11月、平成18年(2008)10月に
その株を松本城に移した。これが小笠原牡丹である。
(松本城にある案内板より)

 
 
 
19/05/06 小笠原牡丹を見にいきましたが、右側遅咲きの小笠原牡丹は、まだ開花していませんでした。

19/05/11 小笠原牡丹は満開でした。

 
松本城主石川数正公夫妻の墓 



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