城の構造 |
本丸背後の堀切が極めて深く又大きいことは他とくらべて少ない。水の平は、南方280m下の谷間にある。本丸は約 |
230平方m(約11坪)あった。二の郭、三の郭の跡もあるが、今に〇〇〇ている。 |
海の口城址に関する歴史と伝説 |
平賀源心(成頼)の出城で別名鳥井城ともいう。平賀氏は現在の佐久平賀の平賀城城主であった。永正・大承年間から |
甲斐(山梨県)の武田氏としばしば兵戦火を交えた。文安・宝徳ごろからこの城よっていた。天文5年武田氏侵攻、兵7、8 |
千人を率いてこの城を攻めた。平賀氏は兵3千にて城をよく守り落城の気配はなく、大雪降りしきり○○ともなったのでや |
むをえず帰陣することになった。この時父信虎とともに海の口城攻略に加っていた武田晴信(信玄)はしんがりにいて父の |
許しを得て兵300人を率いて途中より引き返しこの城を奇襲した。一方平賀源心は武田氏の帰陣するを知りてこの守りを |
解き兵を年取りに家に帰してくつろいでいた。そこへ武田氏の奇襲に会い豪胆70人力といふ源心も虚をつかれあえなく |
戦死し海の口城は落ちたのである。武田信玄はこのとき弱冠16歳で初陣の手柄を立てた。 |
時天文5年12月28日であった。 南牧村教育委員会 |