見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県南佐久郡南牧村

晴信(信玄)の初陣ー海ノ口城

海ノ口城は、平賀源心が甲斐の信濃進攻に備えて出城として作ったと言われています。
天文5年(1536)暮、武田信虎は海ノ口城の平賀源心を攻めました。
簡単に落とせるかと思いきや、戦は長引いて、寒さも厳しくなったので、信虎は退却を与儀なくされました。
これが武田晴信の初陣だったのですが、晴信はしんがりを申し出ます。
一方海ノ口城に篭った平賀源心は正月が近いこともあり、援軍を返し、すっかり油断してしまいました。
晴信は甲斐へ戻ると見せかけ、平賀源心側の油断を突いて攻めかかり、平賀源心を討ち取ったと言われています。
しかし、実際はこの戦いがあったかどうかも、平賀源心が実在したかどうかもはっきりしていないそうです。

国道141号線を走っていると、案内板(海ノ口城まで車で5分、徒歩30分)が出ますので、道を間違えることはありません。
海ノ口城は、主郭に案内板がある他は案内がないので、お城の様子などイマイチ分からないのですが、
かなり規模の小さいもののように思えました。

徒歩30分とあったのですが、ゆっくり花を見ながら登っても23分くらいで、ちょうどよい加減の軽いハイキングを楽しめました。
『南相木村』への案内があり、NHK大河ドラマに出てくる『相木市兵衛』の所領地かと思いました。
                                                (07/ 8/26訪問)

  城の構造
本丸背後の堀切が極めて深く又大きいことは他とくらべて少ない。水の平は、南方280m下の谷間にある。本丸は約
230平方m(約11坪)あった。二の郭、三の郭の跡もあるが、今に〇〇〇ている。
  海の口城址に関する歴史と伝説
平賀源心(成頼)の出城で別名鳥井城ともいう。平賀氏は現在の佐久平賀の平賀城城主であった。永正・大承年間から
甲斐(山梨県)の武田氏としばしば兵戦火を交えた。文安・宝徳ごろからこの城よっていた。天文5年武田氏侵攻、兵7、8
千人を率いてこの城を攻めた。平賀氏は兵3千にて城をよく守り落城の気配はなく、大雪降りしきり○○ともなったのでや
むをえず帰陣することになった。この時父信虎とともに海の口城攻略に加っていた武田晴信(信玄)はしんがりにいて父の
許しを得て兵300人を率いて途中より引き返しこの城を奇襲した。一方平賀源心は武田氏の帰陣するを知りてこの守りを
解き兵を年取りに家に帰してくつろいでいた。そこへ武田氏の奇襲に会い豪胆70人力といふ源心も虚をつかれあえなく
戦死し海の口城は落ちたのである。武田信玄はこのとき弱冠16歳で初陣の手柄を立てた。
時天文5年12月28日であった。                                   南牧村教育委員会

案内板があったのですが、写真がうまく撮れていなくて、やっと上記書き出しました。

山草が美しく咲いていました。 登ってきたのが『左』、そのまま峠を下らず
直角方向に登ると主郭があります。


案内板がある主郭と屏風岩

屏風岩の陰から案内板を見る。
屏風岩に向かうと
右手下に二の郭らしきところがー。
二の郭らしきところの向こうに
国道141号線がー。

平賀源心の胴塚と平沢古道(平沢)

海ノ口城を落とし、平賀源心を討ち取った晴信は、佐久往還を通り甲府に戻りました。
途中、源心の胴をこの地に埋め、首は山梨県北杜市須玉町若神子の道端に埋められました。
佐久往還は、かつては山梨県韮崎市と長野県佐久市岩村田を結ぶ交通の要所でしたが、現在は国道141号線となっています。
途中、念場ヶ原から平沢、三軒家に至る道は、141号線には組み込まれなかったので、平沢古道として、現在に至っています。
平沢古道部分は、たいへんな難所だったとのことで、ここに源心の遺骸を埋葬したものと思われます。
                                                    (14/ 3/ 9 訪問)

(現地案内板より)

平賀源心胴塚は、雪に埋もれて分からな
かったのですが、胴塚の左にあります。

平沢古道案内板
平 賀 源 心 胴 塚
歴史及び伝説  海ノ口城主平賀源心成頼は天文5年12月28日に武田信玄の奇策にあい戦死した。不落を誇り武田氏を
なやました海ノ口城は信玄16才の初陣の手柄により遂に落城し源心の遺骸がこの場所に埋められていると伝えられている。
また甲斐国誌古墳の部には平賀源心西覚寺に牌立す。元信院求堅大居士とあり、山梨県若神子村の路傍に平賀源心の墓
がある。伝説によれば首実検のため首だけ持ち帰り若神子に葬り胴はこの地に埋めたと言う。高さ1メートル直径約4メートル
のつき山は、何万個という石が旅人により供えられている。                平成元年4月南牧村百周年記念

平沢古道から見る赤岳ー信玄(当時晴信)も見たのでしょうか?

海尻城の戦い

海尻城の戦いは、晴信が父信虎を追放した前年の天文9年(1540)のことです。
海尻城は、村上氏の家臣薬師寺右近が守っていたところ、天文9年2月に板垣信方が攻め取りました。
その後本城を武田方小山田備中守が守っていたのですが、同年年末地侍の一揆に村上勢が加わり、城を囲み、武田勢は
苦戦しますが、武田の将軍が援軍に現れて村上勢は敗退したと、南牧村の教育委員会による案内板に書いてあります。
武田勢が海ノ口城を落としてから4年後のことです。

夏真っ盛りに出かけたので木が生い茂り、本丸からの見通しが悪く、周囲は何も見えませんでした。
                                               (07/ 8/26 訪問)

(現地案内板より)

本丸(一の郭)にある『海尻城跡の碑』

海尻城址之碑
『海尻城跡の碑』を背にして
多分、ここが二の郭


本丸へ登る途中にある、
多分これが三の郭
海尻城は、医王院というお寺の横の山という感じのところにあります。
国道141号線の脇にあるのですが、案内が出ているので見落とすことはありません。
医王院の山門脇の上り口から5分ほど登ると、本丸につきます。
医王院のホームページによれば、現在医王院がある場所が海尻城の三の丸だったということ。
二の丸は、千曲川近くの現在民家が並んでいる地域だったそうです。
案内板に二の郭、三の郭とありますが、具体的には、どこか分かりません。

美しい佇まいの医王院 医王院の山門と向こうの小高いところが
海尻城本丸



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