見て歩く甲斐武田氏の史跡ー長野県長野市(3−2)

典厩信繁の菩提を弔う松操山典厩寺(篠ノ井杵渕1000)
 
第4次川中島の合戦で信玄の同母弟信繁は、信玄の本陣に怒涛のように押し寄せる上杉軍を死力をもって防ぎ、
しかし最後は力尽きて討ち死にしました。
信玄の片腕として、武田軍の副将として活躍していた信繁の死は、その後の武田軍にとって大打撃でした。
典厩の首は、上杉軍に取られたのですが、後に武田軍がとりかえしました。
この寺のあった場所が典厩隊が陣を置いたところだったで、典厩の遺骸はこの寺に葬られました。

境内には、典厩のお墓と首清めの井戸が残っています。
一説に、典厩寺の墓には胴がけが埋まっていて、首は小諸市にある典厩の墓にあるとも言われています。
小諸は信繁の諸領地だったので、家臣が首を持ち帰ったとのことです。
山門をくぐった左に大きな閻魔大王像がありますが、これは松代藩八代藩主真田幸貫の発願で、
川中島合戦で死んだ6000余名の追善供養のために建立されたものです。

因みに武田信繁は、武田左馬助信繁が正式名ですが、左馬助の唐名が『典厩』などで、
武田典厩信繁と呼ばれていました。
真田昌幸は、文武に優れた武田信繁から名をいただき、次男を信繁(幸村で知られている)と名づけました。
                                       (13/11/29 訪問)

左:閻魔堂   右:山門

本堂

















殿
















武田信繁の墓

(現地案内板より)

霧の川中島合戦絵図]へ

日本一大きい朱塗閻魔大王像


天井の33身観音菩薩 

閻魔大王背後の四天王 
毘沙門天

 
  閻魔大王の背後

 
 典厩信繁首清めの井戸

武田軍の本陣が置かれた茶臼山(篠ノ井有旅)

第4次川中島の合戦のとき、武田軍が最初に本陣を置いたのが茶臼山だと言われています。
茶臼山はなだらかで山頂が分かりにくいのですが、旗塚と言われる本陣跡までは車で行けます。
番号がついた旗塚の案内板がいくつもあるのですが、詳しい説明がないのでイマイチよく分かりません。
                                   (13/11/29 訪問)

(現地案内板より)

これが茶臼山(標高370m)かと思いますが、はっきりしません。

本陣だったことを示す石碑

山頂付近にはいくつもの溜池がありました。

旗塚が3〜8まで見つかりました。

信玄が自領を視察した金剛山耕心庵(篠ノ井柳沢)
茶臼山の中腹に金剛山耕心庵はあります。第4次川中島の合戦の後、この地方は武田方のものとなりました。
信玄が巡国したとき、この地を訪れ眼下に広がる絶景を眺め、高坂弾正に寺を建て
法性山甲信庵と名づけるよう命じました。

本堂には、信玄寄進と伝える青面(しょうめん)金剛像が安置されています。   (13/11/29 訪問)

(現地案内板より  以下も同じです。)


本堂 川中島合戦の戦死者を供養する弥勒堂

家紋は武田菱ではありませんでした。
信玄桜という名の巨木

信玄も見たお寺の裏にある国見台からの景色



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