見て歩く甲斐武田氏の史跡ー武田氏の祖武関連(1−1


武田の里と武田信義館跡(韮崎市神山町武田)

武田信義が甲斐に根を下ろしたのは、今から800年程前だったそうです。

広大な信義館跡は、今は畳20畳程の囲いの中だけになっています。
周囲は雪でよく分からなかったのですが、畑のようです。


信義の後は、五男の石和五郎信光が継いだので、
武田の本拠地は石和へと移っていきました。
その後長く石和が武田の中心の地として栄えましたが、
石和は水害も多く、信玄の父信虎の代に甲府の躑躅ケ崎の館に転居しました。

                                 (05/ 1/ 1  訪問)

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に、武田信義が出てきたので、
この頁を読み返してみました。
そして、改めて当時の事情を思い返しました。  (22/02/14  記)


三菱の創始者である岩崎弥太郎は、武田信義の末裔であるという説があるそうです。
岩崎氏の家紋は、武田氏の分家の家紋三階菱です。
また、岩崎弥太郎は土佐藩士であったため、土佐藩の家紋と合わせて、
三菱の紋を作ったそうです。
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土佐柏 三階菱

(現地案内板より  以下も同じです。)



武田神社から見た武田の里

武田信義の菩提寺・願成寺(韮崎市神山町鍋山)

風邪のために遅れていた2008年の初詣を1月2日に決行!
武田八幡宮に出かけました。
2日の午後でも参拝客は結構あって、地元での武田人気が感じられました。

武田八幡宮は、登り道の突き当たりにあるのですが、
その途中左手に、武田信義の菩提寺があるので、こちらもお参りに行きました。

かなり最近、しっかり手が入ったという感じのなかなか気持ち良いお寺でした。
本堂の左手に武田信義のお墓があって、お花が美しく飾ってありました。

                    
 (08/ 1/ 2 訪問)

(現地案内板より  以下も同じです。)


最近作られたという感じの山門

 
 願成寺の本堂

 
武田信義のお墓

武田の地名の由来・わに塚(王仁塚、鰐塚)(韮崎市神山町武田)

日本武尊の息子武田王は、諏訪神社の南西桜の御所で政務を執っていましたが、
薨去したあと、韮崎市神山町武田のこの地に葬られました。
この地は王仁塚と呼ばれ、武田王は武田八幡宮に合祀されています。
後に、黒源太清光の息子信義がこの地に住み着き、武田姓を名乗ることとなりました。

王仁塚は、武田八幡宮から歩いても5分とかからないところにあります。
1本の大きな桜の木があって、満開の季節になると、たいへんな人で賑わいます。
                            (08/ 4/ 5 訪問)

(現地案内板より)

王仁塚の桜の向こうに見えるのは、八ヶ岳 エドヒガン(江戸彼岸)

わに塚近くの武田廣神社(韮崎市神山町武田167)

わに塚の北に神社らしきものが見えたので、行ってみました。
『諏訪大明神』と鳥居にありました。
説明板とかはなかったのですが、屋根に武田の割菱がありました。
何か縁がある神社かも知れません。   (08/ 4/ 5 訪問)

コロナウイルスが広がっていますが、韮崎市は感染者がいないということで、
自分をいやすため、わに桜を見に行こうと思い立ちました。
韮崎市のホームページに、『わに桜見物にはマスク着用を。』
とあったのでマスクを持って出かけました。

以前来たときは、案内板がなかった諏訪大明神ですが、
この日は新しい祭殿と共に案内板の出来ていて、勉強になりました。

                  (20/ 4/ 3 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)







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