見て歩く甲斐武田氏の史跡ー武田氏の祖武田信義関連(1−2

武田八幡宮(韮崎市神山町北宮地)

2005年元旦、韮崎市にある武田氏発祥の地を訪ねました。
お目当ては、武田八幡宮。
武田氏の始祖武田信義が作った武田氏の守り本尊です。

躑躅ケ崎の館跡の武田神社とは違い、初詣の人の数も少なく静かな佇まいを見せていました。
                                       (05/ 1/ 1  訪問)

(現地案内板より)

本殿へは画面上右に進みます。 舞殿が見えます。

上の左の写真は、鳥居をくぐるとすぐにある山門(と言っていいのでしょうか?)。ここにもお賽銭箱があります。
その奥で、甘酒が振舞われます。初詣のときに神社でいただく甘酒にしては、量が多い!と
ハシタナイことを考えて、でも寒さに凍えた身体には、何よりでした。
上の右の写真は、山門をくぐって本殿に向かう階段。正面に見えているのは、舞殿です。

舞殿の先に更に階段がーーー。 ここでお参りしてお賽銭をーー。

能舞台のような建物があって、ここでは舞殿となっていました。
お参りするには、更に階段を登らなければなりません。
しかし、本殿は更にその後ろ。雪の残った道を上がるのは、少したいへんでした。

この本殿は、信玄が再建(1541)したものが
残っているのだそうです。

勝頼夫人(北条氏康の娘)が、
織田との合戦の前に願文を奉納したという
武田八幡宮。

勝頼夫人の願文は、
甲府市の武田神社の博物館にあります。

彼女の願いも空しく、武田氏は、
織田氏に滅ぼされました。
本殿

武田八幡宮の鳥居は、一、二、三とあるようですが、三の鳥居はまだ確認してありません。
一の鳥居は八幡宮のすぐ近くにあるのですが、二の鳥居は参道をかなり下ったところにあります。
(元々そこにあったのではなくて、移築したものとか。)
二の鳥居は、武田信虎が再建し、江戸時代になって何度か手が加えられたとのことです。

山梨県重要文化財の一の鳥居
(武田八幡宮を背にして撮影)

一の鳥居(武田八幡宮に向かって撮影)
 (08/ 1/ 2)
山梨県重要文化財の二の鳥居
武田八幡宮を背にして撮影。
神額は反対側にあります。 (08/ 1/ 2)
鳥居の歴史が書かれている神額

為朝神社(韮崎市神山町北宮地)

武田八万宮から50m程のところに為朝神社があります。
最近できたという感じの新しい小さなお宮があるのですが、
これは鞘堂で、中を覗くと小さなお宮と為朝の木造がありました。
これらがどれくらい古いものなのかは、分かりません。

なぜ、ここに為朝神社が?と一瞬思ったのですが、考えてみれば
為朝の先祖も信玄の先祖も同じ源頼義だからなのですね。

                  (05/ 1/ 1  訪問)

(現地案内板より)

これは、相当古そうです。 弓を持っているのでーー。

武田信義の要害城・白山城(韮崎市神山町北宮地)

戦国時代のお城は殆どが山城で、登るのがけっこう大変です。
城主は、この山城暮らしたかというとそうではなくて、
こういった山城は、敵に攻められたときに防戦するためのもの、城主は麓に居館を構えるのが一般的でした。
武田八幡宮の近くにある白山城は武田信義の要害城で、居館は別にありました。

白山城の付近は、猿や熊が生息するということで、かなり厳重な網の塀が作ってありました。
熊が出る心配もあったのですが、この塀の中に別荘らしき建物が数軒あって、
しかも人がいる様子でした。まぁ、怖がっていないで登ろうということになりました。

登山道はよく整備されていて、冬(08/ 1/ 2)ということもあって、雑草もなく
大変登りやすく、アッと言う間に本丸に着きました。
白山城は、八幡沢川と白沢川に囲まれた天然の要害の地にあり、土塁などがよく保存されています。
信義亡きあとは、一族の一条氏、支族の武川衆の青木氏、山寺氏が白山城を守ったのですが、
江戸初期に廃城となったそうです。
武川に青木鉱泉というのがあります。青木氏の領地だったところだなと思いました。
                                             (05/ 1/ 1  訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)


武田八幡宮の駐車場から見た白山城

この戸の向こうに登山道があります。
本 丸

本丸から見下ろす景色
本丸の案内板に向かって左に二の丸があります。

二の丸から白山神社への下り道
この城は、元々城山と呼ばれていたのが、
麓にある白山神社の名前をとって、
白山城と呼ばれるようになったそうです。

白山神社へは、まだ行ってないのですが、
そのうち行ってみたいと思っています。
本丸への手前にある三の丸



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