見て歩く甲斐武田氏の史跡ー韮崎市(2ー1)

穴山氏の史跡(韮崎市穴山)

元々武田氏の一族で、穴山に所領と持っていたことから、穴山氏を名乗っていたといいます。
穴山梅雪は、信玄の父信虎の娘を母に持ち、信玄の娘を妻にしていました。
そのためご親類衆のなかでも筆頭の力があり、信玄亡き後は勝頼と勢力争いがあったといいます。


勝頼の生前から織田・徳川の連合軍に通じていた梅雪は、
勝頼の死後、武田氏を受け継ぐ約束になっていました。
梅雪は、明智光秀の謀反(本能寺の変)の折、家康とともに泉州堺に滞在していました。
家康は、無事脱出することができましたが、梅雪は同じコースでの脱出が一日遅れ、
その結果、木津川付近で最期を迎えることになりました。
自殺したとも土着民の手にかかったとも、言われています。
家康と間違えられて殺されたとも、家康によって殺されたとも、諸説あるようです。
梅雪のお墓は、木津川近くの飯岡の共同墓地にあるそうです。
   (06/ 2/ 6 訪問)

(現地案内板より 以下も同じです。)


久保区にある大龍山満福寺に、
穴山氏のお墓があるというので言ってみました。
なるほど、本道の屋根には武田の割菱がありました。
入口付近の案内板によると、
寺記に書いてあることと実際とは違いがあるようで、
穴山氏は南北朝初期に武田氏から分家した家なので、
満福寺もかなり古いお寺らしいということでした。

案内板に「穴山梅雪は名将であった。」旨
書いてありました。
静かな佇まいの満福寺

境内には信虎公夫人の和歌がーー。

本堂の裏にある穴山氏のお墓
(梅雪のお墓ではありません。)
久保区からそれほど遠くない、というかむしろ繋がっている重久区に、
穴山氏の氏神様・若宮八幡宮と穴山氏の居館跡があります。

と言っても、看板だけで例えば石積みとか土塁跡が残っているというわけではありません。
それでも、はるか昔に思いを馳せると感慨が沸いてきます。

穴山氏氏神跡 若宮八幡 穴山氏の居館跡


能見城-武田家家臣守屋一族発祥の地-(穴山町)

七里岩ラインを東京方面に進むと、右にJR穴山駅、左に能見城跡の文字があります。
この文字に向かって左側に進み、城跡と思える丘を一周してみました。
丘の上への登山道は、この能見城跡の文字に向かって右に進むとあったのですが、
結果的には、大回りしたことになります。


『私有地につき無断通過を禁止ー長靖寺』とあったのですが、失礼して登らせていただきました。
車が十分通れる広さの道に電柱・電線があるので、人が住んでいるのかなと心配でした。

坂を上りきったところに、武田信玄の家臣であった守屋新兵衛尉定知の
居城であった能見城跡と、真言宗長靖寺があります。
位置としては、穴山氏の居館と新府城の中間にあると思えます。

長靖寺は、ちょっと見にはお寺に見えないのですが、電気がついていたので、
どなたかいらっしゃるのかと思いました。

一番高いところに『能見城址』の看板があって、守屋一族発祥に地の碑があります。

武田勝頼が、新府城を捨てたとき、能見城も廃城になったらしいのですが、
守屋氏のその後のことは分かりません。
     (06/ 2/ 6 訪問)

七里岩ラインから見上げる

現地案内板より 左上も同じです。)
お寺には見えない長靖寺 能見城址



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