見て歩く甲斐武田氏の史跡ー韮崎市(2ー2)

徳川家康が駒井の民のために建立した極楽寺(藤井町駒井)

武田信玄の重臣で、『高白斎記』を書いたことで有名な駒井高白斎の本拠地は、
韮崎市藤井町駒井付近だったと思われます。
国道141号線の駒井交差点の角にあるお寺が気になって見に来ました。


永寿山極楽寺の境内に『草創四百年追遠之碑』というのがあって、裏側にお寺の由緒が書いて
あるのですが、字がとろけてしまって、ほとんど読めません。

それでも頑張ってみると、極楽寺は「徳川家康が駒井の民の英傑さに感じ入り創建した。」
らしき文字が見えます。(よく分かりません。)

駒井氏は武田家滅亡後、徳川の配下である榊原康政に仕えたので、ナルホド!と思いました。
                                  (2009/ 4/ 8 訪問)

本堂(どなたかお住まいの様に、見えます。) 永寿山極楽寺、草創四百年追遠之碑

駒井の交差点
国道141号線、駒井の交差点付近。
右は、極楽寺の塀。
武田信長が武田氏再興の拠点とした日之城(穂坂町三之蔵)

日之城(日之出城)は、室町初期武田信長に属していました。
二方を川で囲まれる要害の地にあります。
武田信長は、武田家10代当主の武田信満の次男でした。
信長の頃、甲斐は国主不在となっていて、騒乱の巷にありました。
新羅三郎義光の直系ということになれば、逸見氏が直系でした。
信長は逸見氏、跡部氏と戦って、武田家再興のために活躍しました。

信長の元で戦った武士団『日一揆』に因んで、
城の名前は『日之出城』あるいは、『日之城』と呼ばれています。
『日之城』という地名は、城の東北東の集落に残っています。
                        (2009/ 4/ 8 訪問)

日ノ出城跡
 日ノ出城は、鷹巣(たかのす)城または日之出方とも呼ばれ、西部は塩川の断崖に臨み要害を誇る。
 この城は、室町時代の初期応永・永享(1394〜1433)のころ武田右馬助信長に日一揆が属し、
武田氏再興の拠点として、活躍した所である。
 そのころ逸見・跡部両氏に輪宝一揆が与して敵対し、抗争を繰り返したが永享5年(1433)4月
信長・日一揆は輪宝一揆と荒川原で激戦を交えたが、大敗を喫し総崩れとなった。
 以来城域は廃墟と化したが、天正10年(1582)北条氏直当国侵入により、徳川家康城跡を修築し
てこれに備えた。
 城名は日之城と区名として、城跡はトリテ・土居・女官屋敷・牛が馬場などの地名が残り、砦・空堀の
遺構があって、往時を偲ばせている。         平成2年10月12日
                              韮崎市教育委員会
(現地案内板より 以下も同じです。)

日之出城跡碑
 日之出城は、室町時代の初期応永・永享のころ武田右馬助信長に属して、武田家再興のため活躍
した武士集団日一揆がこれを活動の拠点として武田氏に敵対する跡部逸見両氏に属した輪宝一揆と
抗争した中世の史跡で、日一揆にちなんで日之出城あるいは日之城と呼ばれた。城名は現に日之城
区として残り城跡にはトリデ、牛が馬場、タカノス、土居の本などの地名と砦、空掘の遺構が存して、
りし日を偲ばせている。このたび全区民の賛同による城跡顕彰運動が結実し市史跡に指定され
たことを機にこの碑を建て、当区発祥の歴史を永く後世に伝えるものである。

塩川にかかる鷹巣橋から見る日之城全景(中央道で串刺しにされています。)

中央道から見る日之城(東京方面に向かって)   (2009/ 4/21 撮影)

上の写真の右側の崖のアップ堅固な要塞だったと分かります。(2013/ 6/12 撮影)

逆方向の中央道から見る日之城(松本方面に向かってー八ヶ岳が見えます。)
正面砦橋の右側に城跡の石碑があります。(2009/ 4/23 撮影)

日之城の頂上は、中央高速道路で
串刺しにされていますが、
その中央道に架かる砦橋のすぐ横に、

日之出城の石碑があります。

石碑の横に『日之出城跡想像略図』があります。
発掘調査並びに古老の
言い伝えによるものだそうです。


鷹巣橋を渡り、中央道の下を通って進むと
左手に古い神社がありました。
お参りしてみると、屋根に武田菱がありました。
武田家縁の神社かと思ったのですが、
案内板などはありませんでした。

神社の額と屋根の武田菱
神明神社




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