見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県小田原市(1−2)

後北条氏の小田原古城(城山)

江戸時代の小田原城
以前小田原城を見学に行ったときは、復元した天守閣と動物園だけの印象でした。
後北条氏時代の城という視点に立つと、なかなか興味深いものがあるだろうと思え
ました。
今回、まず小田原市市役所の観光課を訪問し、資料・パンフレットなどを
いただき、このページの中の地図は、その資料から転載させていただきました。
古城は、現在小田原高校がある小高い丘の上にあり、江戸時代の城は、
現在の復元天守閣のある付近だとされていましたが、最近では江戸時代の城だと
されている付近からも戦国時代の庭園などが発掘されたと聞きました。

私見ですが小田原古城は根小屋形式の城で、古城を要害城として使い、
江戸時代の城付近を政務を司る場所として使っていたのではないかと思います。

あと、小田原古城を取り巻く総構えは、秀吉に対抗するために作られたものだと書
かれた文献を見ましたが武田信玄、上杉謙信を迎え討った時にも規模こそ小さくて
もすでにあったものを、更に追加再構築したのではとも思います。

知りたかった武田信玄、上杉謙信が本陣をおいた場所は不明とのことでした。
                      (2013/ 7/ 8 訪問)


山下清の絵葉書より

(現地案内板より 以下も同じです。)


幸田口門跡と土塁、堀跡
小田原城の北西角、お堀端通り沿いに、土塁がよく保存されています。
小田原古城とは離れた位置にありますが、
武田信玄、上杉謙信が小田原城を囲んだとき、幸田門から攻めたのだそうです。
この土塁は、江戸時代ものだという表記を見ましたが、
戦国時代からあったものを豊臣秀吉に攻められたときに再築され、
更に江戸時代にも再築されたのではないかと、私見として思っています。

幸田口門跡記念碑 土塁の上は通路になっています。

側面から見た土塁跡 お堀跡が残っています。

  (9)早川口遺構
 
 支跡小田原跡址早川口遺構は、後北条氏が
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに
備えて造った大外郭(総構)の一部で、現在では
緑が豊かな公園として人々の憩いの場所と
なっています。
  

北条氏が秀吉との合戦に備えて構築した総構えの遺構です。
保存状態がよくて、史跡公園となっています。


(13)小田原古城
案内板から見上げた小田原古城
見かけより高さがあります。

古城があったと思われる場所に
小田原高校があります。

小田原高校敷地内から発掘された井戸。
現在は保存のために埋め戻されています。

井戸があった位置に、
ニセモノが作ってあります。




城山公園 (8)小峯御鐘ノ台大堀切
左: 小田原高校正門前近くにある、多分古城の曲輪があったと思われる城山公園。
右: 小峯御鐘ノ台大堀切という名の、小田原古城の史跡の中で圧巻の堀切。
幅最大25m、高低差12mで散策もできます。


北条氏政・氏照の墓所(栄町2ー7−8)

天正18年(1590)4月3日、豊臣秀吉によって小田原城の北条氏政・氏直は包囲されました。
籠城するも、7月5日氏直は降伏し、開城しました。
氏直は、自分の命と引き替えに父氏政と叔父氏照の命乞いをしましたが、秀吉は聞き入れず、
結局、氏政と氏照は切腹、氏直は高野山に追放されました。

氏政と氏照二人の遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬され、その後長く放置されました。
この墓所は、江戸時代になって稲葉氏が小田原城に入城した後、
北条氏追福のため、作り直したものです。

関東大震災の折、行方不明になりましたが、翌年有志により復興されました。
因みに後北条5代目の氏直は、武田信玄の孫にあたります。

信玄は、北条氏政の妻となった長女梅御寮人の出産の折、
富士御室浅間神社(富士河口湖町勝山)で
安産祈願をしています。
そのとき生まれたのが北条氏直です。
     (2013/ 7/ 8 訪問)

(現地案内板より)

道路から少し上がったところにあります。

お墓全景

氏政、氏照が自刃した生害石(長さ115cm、 幅78cm) 右から氏政夫人、氏政、氏照のお墓




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