武田氏の狼煙台として使われた小坂城(湊小坂字城山) |
小坂城は、1154年甲斐源氏源信義が築城したと言われています。
歴代の城主は、諏訪氏の流れを汲む小坂氏の名前が挙がります。
小坂城は、狼煙台の役目を持つ簡素な山城だった
と思われていましたが、
中央高速道路建設の折の調査で、しっかりとした城郭を
持った城だと分かったそうです。
地元の人のお話によると、中央道建設時、
城の一番高かった部分(多分主廓)が消失してしまい、
今は史跡と言えるものは何も残っていないそうです。
中央道で分割された東側部分にお社が見えるのですが、
これはこの地の50軒ほどで守られている神社で、
小坂城の歴史とは関係ないとのことでした。
小坂城は、武田氏の城となっていましたが、
武田家滅亡後廃城になりました。(14/ 9/ 2 訪問) |
→
|
|
|
|
|
|
中央高速道路で分断された小坂城(1)
|
|
中央高速道路で分断された小坂城(2)
|
|
中央高速道路で分断された小坂城(3) (2014/10/29撮影)
|
|
中央高速道路で分断された小坂城(4) |
|
信玄側室諏訪御寮人縁の小坂観音院 |
信玄側室諏訪御寮人縁の小坂観音院へ07/ 3/28行ってきました。
諏訪御寮人は、『由布姫』『湖衣姫』といった作家の方に命名された名前がありますが、
諏訪御寮人の本名は、高遠にあるお墓の戒名より『梅』だと言われるようになったようです。
最近の情報によると小坂観音院は、諏訪御寮人が晩年を過ごし、その供養塔があるというー。
しかし、諏訪寮料人の墓は高遠城にあるわけだし、供養塔はお墓ではないし。
小坂観音院で諏訪御寮人が晩年を過ごしたというのも、うーーーん、どうなんだろうという感じです。
高遠に、諏訪御寮人のお墓があるというのは、勝頼が高遠城主だったとき、
形見の品かなにかを埋めて、お墓を作ったんじゃないか等と勝手に推測しています。
それはそれとして、小坂観音院は、琵琶湖の眺望が美しく、しっとりとした気分になれる観音院です。
この地域、福寿草が満開で、とても楽しめました。 (17/ 3/28 訪問) |
|
|
|
諏訪湖に向かう感じの山門。ぐるっと回って、
諏訪湖を背にして本堂へ上ります。 |
|
|
江戸時代中期の建物だとされる本堂 |
|
|
|
諏訪の方の供養等 |
|
卒塔婆には、
なぜか『由布姫』とあります。
|
|
|
|
|
|
この付近は、福寿草の群生地でした。 |
|
諏訪氏の孫支族・花岡氏築城による花岡城(湊花岡) |
花岡城は諏訪湖の西岸、
諏訪湖の水が天竜川に流れ込む付け根にあります。
今は、花岡公園となっていますが、
歴史などについての案内板などはありません。
築城年代は分かっていませんが、
築城者は諏訪氏の支族である有賀氏の
そのまた支族である花岡氏だと云われているそうです。
(14/ 8/18 訪問) |
→ |
|
|
|
天竜川と花岡城 天竜川の向うは諏訪湖
|
|
|
|
主廓 向うに土塁が見えます。
|
|
主廓にある石碑の数々 |
|
|
|
二の廓と思われます。
土塁が残っています。
|
|
二の廓にも石碑があります。 |
|
花岡城から見た諏訪湖 |
|
塩尻峠の戦い跡[説2](鳥居平やまびこ公園の正門付近) |
天文17年7月19日(1548年)塩尻峠で武田晴信と小笠原長時が激突しました。
晴信は、上田原の戦い(天文17年2月14日)で板垣信方、甘利虎泰を失い、
その結果、諏訪郡代板垣信方の死亡は、諏訪地方の乱れを呼び、晴信組し易しの風潮となりました。
武田側はその劣勢を挽回して小笠原側は武田勢の息の根を止めるべく、激しい戦いとなりました。
しかし、数時間の戦いの後、武田の勝利に終わり、小笠原軍は退却しました。
塩尻峠の合戦がどこであったかはっきり分かってはいませんが
岡谷市の鳥居平やまびこ公園の正門近くに『塩尻峠の合戦跡』ではないかという案内板があります。
塩尻峠の戦いは、塩尻市柿沢区だったという説もあるようです。 (13/ 9/28 訪問)
|
|