見て歩く甲斐武田氏の史跡ー大月市

小山田信茂の城・岩殿城跡(賑岡町)

国道20号線、甲府に向かって左側、大月駅手前付近でも、高さ634mの岩殿山が良く見えます。
大きな岩がそっくり山になっている岩殿山。悲しい物語があることもあって少し憧れていました。
国道から見ると、中腹より下という感じで、『岩殿城跡』の看板とお寺のような建物が見えます。


お昼を食べたお店で聞いてみると、「車で上ることはできないけれど、桂川を渡ったところに
駐車場があるから、そこに車を置いて上れば20分ほどですよ。」ということでした。

車をおいて車道を上っていくと、階段があって『ふれあい館』『プラネタリュウム』の案内があります。
車道の先にも『岩殿城跡』の案内があって、紛らわしいのですが、ここが上り口です。

                             (05/ 3/ 3 訪問)

(現地案内板より)

国道20号線から これが岩殿城かと思ってーー。 実は『ふれあい館』

7分ぐらいで下から見た建物にきました。
ここが入場無料、プラネタリュウムは有料の『ふれあい館』でした。
ここが終着点かと思ったのですが、そうではなくて岩殿城は山の頂上にあったとのこと。
ここから更に上らなければなりません。
あの岩にどうやって登るのかと思ったのですが、ここまで来たのですから
頑張ってトライすることにしました。

『ふれあい館』から見た頂上 険しい道を上っていくとーーー。

手すりがついた階段になってはいるものの、かなり険しく息が切れました。
登山道は、山に向かって左側の1本道です。

この岩を横目に見ながらーー。 『稚児落し』と言われる小山田氏の逃げ道
(見えませんけれど)
揚城戸跡

写真では見にくいのですが、案内板の後ろの岩の間を通っていくようになっています。
頂上に上ると『物見台』番所跡』『馬場跡』『倉屋敷跡』『本丸跡』『空壕』などの
位置が示してあります。

水はあったのだと『ふれあい館』で聞いたのですが、
こんな高いところで生活するのは、並大抵の苦労ではなかったでしょう。


『馬場跡』というからには、馬もこの急坂を登ったのですね。

   
馬場跡

場内で一番広い
面積を有し、馬や兵士
の訓練場とされ、非常
にそなえた
   

岩の先端から下を覗くと、足が震えました。
下るとき、余りに急な階段で、ひざを痛めないだろうかと心配しました。
片道30分以上かかったように思います。

岩の頂上から見下ろす桂川と中央道 岩の頂上から見下ろす桂川と大月市街
左側の橋近く駐車場が見えます。

なぜ、岩殿城が武田氏の史跡かという説明が最後になりました。

岩殿城は、鎌倉末期に小山田氏が築いたもので、城というよりは狼煙台のような働きをしていました。

岩殿城最後の城主は、武田家家臣の小山田信茂です。
信茂は武田家家臣でありながら、
織田信長の猛攻に耐え切れず、新府城に火をかけ逃げてきた武田勝頼の入城を拒だことで有名です。
結果、勝頼は天目山で自刃することになります。
(信茂が勝頼を攻めた事実はないという説もあるようです。)

信茂は勝頼が自刃したあと甲府にいる信長のもとに出向きますが、
信長は信茂を裏切り者と罵り、結局信茂は信長に殺されてしまいました。
(信長に殺されると察知した信茂は、逃げて善光寺の床下に隠れたいたところを発見されて
殺されたという説もあるようです。)
同じ死ぬなら、勝頼を匿い、華々しく討ち死にしたほうが良かったという考え方と
勝頼の入城を拒否することによって、領民を戦火から守ったという説と両方あるようです。

上の写真の中の『稚児落し』というのは、小山田夫人が城を出て落のびるとき、
子供を落として自らも身を投げたことによる命名だという説があります。

08/11/ 9、甲府方面進行中に、中央道岩殿山付近を通過したときの写真です。

難攻不落と言われた岩壁がよく見えます。

岩の下を中央道が通っています。

武田信長と足利持氏、武田信虎と上杉憲房の合戦場となった猿橋(猿橋町猿橋55-7) 

桂川に架かる日本三奇矯の一つ猿橋は、武田信長と足利持氏、
武田信虎と上杉憲房の合戦場となったそうです。
合戦のとき、橋が架かっていたのだろうか、架かっていたとして
安全なものだったろうかと色々考えました。
因みに7世紀に百済の渡来人・志羅呼(しらこ)が猿橋を架橋したのだ
という伝承があるそうです。
     (2005/02 訪問)






































(現地案内板より)





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