見て歩く日本の城と史跡ー神奈川県相模原市南区(1)

信玄が戦勝を祝して植えたサイカチの木(下溝)

1569年、北条攻めのため2万の大軍を率いた信玄は、まずは廿里合戦、滝山城攻めで北条氏照を破り
御殿峠、相原、橋本を経て、相模原市下溝の相模川河畔に陣をしきました。この地で、
北条氏康を迎え撃つつもりだったと聞いています。
そのため、隠れていて急襲するために、河畔の絶壁にいくつも横穴を掘ったそうです。

第二次世界大戦の後、燃料も不足して、近所の住民が薪集めのためこの横穴に入ってみると
矢じり等の武器らしいものが、見つかったそうです。
今は、草に覆われてとても近づけませんが、秋になったら見に行こうと思います。

信玄は、なかなかの縁起かつぎで、この地にサイカチの木を植えました。
場所は、ほぼJR下溝駅と原当麻駅の中間地点、八景の棚を少し原当麻の駅に近寄った
相模川沿いの道にあります。石碑があるので、よく分かります。
車の往来が激しいので、気をつけなければなりません。

サイカチの木を、戦勝を祝して植えたとあるので、滝山城攻めの勝利を祝い、
再び勝つようにとの意味合いなのでしょう。

『サイカチ』は、『サキガチ』の音便だという考えもあり、これからの戦いの勝利を祈って植えた
とも言われていると聞いたこともあります。

サイカチの木は寿命が80年くらいだそうで、今数本あるのは、実生が育って、何代も経た木だと思われます。
07/ 5/26に見に行ったときは、黄色い花が美しく咲いていました。
秋になると実がなって、この実をお風呂に入れると腰痛に効くんだそうです。
                      
            (07/ 5/25 訪問)

交通量の激しい道沿いに石の案内板と
サイカチの木があります。

これが初代サイカチの木ではないかと!
美しい花が咲くサイカチの木
八景の棚から見る丹沢と相模川。ここが北条氏康との
激戦の地になった可能性もあったとか。

北条氏の狼煙台伝承のある当麻城(下溝)

鎌倉時代初期に源範頼の家臣であった当麻太郎がこの地に城を築いたと言われています。
戦国時代には、当麻城に後北条氏の狼煙台が築かれたとの伝承があります。


相模原市(合併前の)は、大きな断層があって大部分がその断層の上にあります。
当麻城はその断層の上にあり、現在は車道が当麻城(浅間神社)の脇を通っているので、
市の中心部から行くと、山城というイメージはありません。
しかし、浅間神社を右に見て断層を下ると当麻城が小高い丘にあったのが分かります。

話が前後しますが、当麻城がどれくらいの規模であったかは今では分かりません。
ただ、城の中心であったと思えるところに浅間神社があって、
その浅間神社から崖っぷちに向かって、廓らしきものが残っています。
浅間神社と道を挟んだところに相愛病院があるのですが、
かつては病院敷地の当麻城の一角だったかもしれません。


豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、当麻豊後守が当麻城に立て籠もったと言われています。
                             (07/10/24 訪問)

浅間神社 廓とおぼしき所(突き当たりが浅間神社)

空掘と思われます。 断層の下から見る当麻城(右は相愛病院)

北条氏照の息女が余生を送った下溝堀の内城(下溝)

鳩川と道保川に挟まれた字下原地区は、かつて北条氏照の息女が余生を送ったところと言われています。
この近辺は、1548年ころ、北条氏照
(自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っていた。)
の諸領地になり、息女貞心が山中大炊助と結婚したときに化粧田として与えられ、
下溝城とか堀の内城とか呼ばれていました。
貞心は、結婚してここに住んでいたのではなく、夫の死後ここに移り住んで、一生を終えたそうです。
そのとき着き従ってやってきた、井上図書は堀の内に、福田忠光は新屋敷に住みました。
新屋敷は、堀の内の外側にあり、他にも『上庭』『下庭』といった地名が堀の内の外にあるのですが、
これらも下溝城に関係があるのでは?と推測しています。

堀の内には、今も井上姓が多いそうで、中でも井上農園は、下溝城の中心にあったそうです。
しかし、今では住宅地になってしまって、遺構らしきものは残っていません。
                 
            (07/10/27 訪問)

井上農園と近くの風景

堀の内にある山中貞心神社

下の写真は、堀の内の外、相模原公園の西側、下溝地区を見下ろす高台にある山の神神社。
山の神神社は、貞心尼の屋敷の鬼門を守るために祀られたそうです。

山の神神社から見下ろす堀の内の風景 山の神神社

北条氏の時代に賑わった当麻山無量光寺(当麻578)付近

後北条氏の初代伊勢新九郎の時代に、当麻は小田原北条氏の支配下に入り、関所が置かれました。
その関所がどこにあったのかは分かっていませんが、『市場』『上宿』『下宿』『鍛冶屋坂』などの地名が今も残っています。
当時、当麻山無量光寺周辺は大変な賑わいだったそうです。

現在の地形を見ると、相模川へ流れ込む『八瀬川』という川が無量光寺の脇を通り当麻市場の方向に流れています。
この川を使って、荷物の運搬が行われていたのではないかと推察しています。

武田信玄が小田原を攻めたとき、上溝を通り下溝に抜けた間に当麻を通ったようです。      (2014/ 1/16 訪問)

今もその名が残る当麻市場

当麻市場付近ー右は無量光寺
当麻山無量光寺の山門

本堂
無量光寺の寺紋
八瀬川ー右が無量光寺、前方が当麻市場

無量光寺入口付近から見た相模川昭和橋 画面左の崖の上に当麻城があります。



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